オーストラリア辞典
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Hinkler, Herbert John Louis

ヒンクラー、ハーバート・ジョン・ルイス


1892‐1933
バンダバーグ、クィーンズランド生まれ。
飛行士。


 1892年にバンダバーグで生まれ、その地の学校に1898年から1906年まで通った。父はドイツ生まれで牧童だった。最初ヒンクラーは写真家になる努力をしていたが、すぐに空に興味を持ち始めた。彼は精糖工場や鋳造所で働きながら仲間を探し、1910年にクィーンズランド航空機クラブとオーストラリア航空機連盟に入会した。1911年から12年にかけて2機のグライダーを製作し、特に2機目の設計は朱鷺(アイビス)の飛行を元にしたものだった。この頃オーストラリア空軍への入隊に失敗している。

 ヒンクラーは1913年の末にイギリスへ渡り、飛行機工場で働くことになった。翌年には空軍に入隊して飛行士の訓練を受け、1915年末には下士官になった。第1次世界大戦では技師、射撃手、パイロットとして活躍し、勲賞を授与された。1920年にはアヴロA.V.Roe社と契約し、35馬力のアヴロ・ベビー号を購入し、イギリスのクロイドンからアルプスを越えて、イタリアのトリノまで9時間半無着陸で飛んだ。機体のトラブルでオーストラリアまで飛ぶという計画は中止されたが、翌年飛行機をオーストラリアに運び、シドニーからバンダバーグまでの無着陸飛行を果たした。ヒンクラーはイギリスに戻ると、1926年までアヴロ社のためにテスト飛行の責任者を務めた。1927年には、イギリスからラトヴィアまでの無着陸飛行をアヴロ・エイヴィアン号に乗り果たした。1928年にはやはりアヴロ・エイヴィアン号で、イギリスからオーストラリアまでの単独飛行を、15日2時間15分で果たした。このことにより彼はオーストラリア空軍の名誉飛行中隊長に任じられ、空軍十字賞を授与された。

 その後再びイギリスに戻ると、彼は「朱鷺」という名の水陸両用戦闘機の製作に乗り出した。1930年に試作機の飛行に成功したが、世界恐慌のために買い手が見つからなかった。1931年、彼はパス・モス号に乗ってカナダからニューヨーク、西インド諸島、ヴェネズエラ、ギアナ、ブラジル、南大西洋を経てロンドンまで飛行し、人々にその名を知らしめた。1932年、ヒンクラーは軽量の飛行機による世界一周をもくろんだ。しかし1933年、イギリスのヒースロー空港からオーストラリアへ向けて飛び立った彼のパス・モス号は、イタリアのアルプスに激突し、ヒンクラーも遺体となって発見された。

 左近幸村0801