Hindmarsh, John
ハインドマーシュ、ジョン
1785-1860
おそらくイングランド、詳細は不明。
イギリス海軍軍人、初代南オーストラリア総督(1836-1838)。
1836年南オーストラリア総督に着任するが、南オーストラリア会社の全権代理人や測量長官などと対立し、南オーストラリア植民地は混乱し、1838年に召喚された。
海軍の軍人であった父ジョンと妻メアリの間に、1785年5月22日に生まれた。 14歳で父親の給仕として海軍に入り、ナポレオン戦争で多くの海戦を経験した。 1802年までには将校として通用するようになり、1803年に実際には20歳未満であったが、ネルソンの推薦によって将校に昇進することができた(1782年チャタム生まれという偽の出生証明を提出している)。 1814年には艦長に昇進し、ナポレオン戦争後、給与が半額となる予備役になった。戦争中片目を失ったが、それに対する補償を受けることはできなかった。 1809年にスザンナ・エドミーズと結婚し、一時フランスに住んだ時もあった。
1830年に再び現役に復帰し、1834年にはエジプト艦隊のナイル号の艦長となったが、イギリス政府が約束していたエジプトのパシャの艦隊の提督となることはできずに、1835年ポーツマスに戻り、南オーストラリア総督の地位を確保した。ハインドマーシュは、ウェイクフィールドの組織的植民に好意を抱いていたが、その弱点を十分に把握していなかった。また、総督と南オーストラリア会社の全権代理人の二重権力の問題点も把握していなかった。
1836年7月14日、正式に総督に任命されると、家族や会社の全権代理人フィッシャーJ.H.Fisherなどとともに南オーストラリアに出発し、12月28日にホウルドファースト・ベイHoldfast Bayで植民地政府創設の儀式を行った。入植地では、他の入植者や先に到着していた測量長官ライトと、植民地の首府を置くべき場所について対立し、入植者の集会によってライトの案が採用された。これにより総督の権威は傷ついたが、土地への投機には参加し、個人的な利益は確保した。
1837年、総督とフィッシャーの対立は激しくなり、フィッシャーが総督の行為を妨害し、非難を浴びせかける一方、総督は反対派を行政評議会から排除した。その1人ロバート・グジャRobert Gougerや反対派はロンドンでも総督への批判を行い、植民地省はその圧力に屈し、1838年ハインドマーシュの召喚を決定した。彼は、再度総督に任命されることを期待しており、妻をアデレイドに残した。彼女は息子のジョンをヴァンディーメンズランドの公職に就けることには失敗したが、娘のメアリはジェームズ・スティーヴンの従兄弟のG.M.スティーヴンと、もう1人の娘ジェーンはリンカーン伯の従兄弟のアルフレッド・マンディと結婚させることに成功した。また、土地の売却により、バンク・オヴ・オーストラリアのアデレイド支店に12,000ポンドの預金口座を持ち、アデレイド最大の預金者となった。
植民地省は、ハインドマーシュの召喚を彼の失敗であるとはみなさずに、1840年北海のヘリゴランドの総督に任命した。しかし、ナイトの地位の要請は拒否した。ヘリゴランドの静かな生活の後、1851年にナイトに叙せられ、1856年の引退と同時に海軍少将に昇進した。翌年妻とブライトンに移住し、1859年妻の死後ロンドンに移り、翌年そこで死亡した。息子のジョンは法律家となった後、1855年にアデレイドに戻り、後にニュージーランドに移住した。
藤川隆男00