Higgins, Henry Bournes
ヒギンズ、ヘンリー・バーンズ
1851-1929
ニューターナーズ、ダウン、北アイルランド生まれ。
法律家・政治家。
「これは第1の基準である。非熟練労働者の争議において、『公平かつ妥当に』取り扱われるべき最低賃金を保障するため、私が適用する基準である。」1907年11月、ヒギンズは、労働者の最低賃金を明記したハーヴェスタ判決を下した。法律家・政治家として、彼は、労働者の権利を絶えず擁護した「労働者の友」であったと言われる。
ヘンリー・ヒギンズは、メソジスト派の聖職者であった父ジョンJohnと母アンAnne、旧姓Bournesのもと、福音主義の敬虔さと倹約的環境の中で育った。一家は1870年にメルボルンへ移住し、ヒギンズは働きながらメルボルン大学に通い、法律家を目指した。1876年に衡平法専門の法律家となり、1887年に衡平法法廷the equity Barの主席判事、1903年には勅撰弁護士となった。法曹界において成功を収めたヒギンズは政治活動へと向かい、1894年、ヴィクトリア州南部の港町ジロングで植民地下院議員に当選する。この時期、ヒギンズは社会問題の解決のために政府はより積極的な役割を担うべきだとの考えを強め、最低賃金の導入を規定する工場小売店法the Factory and Shops Act(1896年)を支持し、労使関係に関心を持つに至った。
1897年から1899年にかけ、ヒギンズはヴィクトリア代表として、オーストラリア連邦発足のための憲法制定会議に出席した。会議の趨勢は、中央政府の権限を必要最低限に制限するアメリカ合衆国的な連邦制度へと向かったが、ヒギンズは数少ない反対派の1人であった。この会期中に、ヒギンズは、労働争議のための調停仲裁修正案や、個人の権利としての信教の自由を定めた修正案を通した。またボーア戦争への参戦に対しても、反対の意を表明した。
ヒギンズは、1901年から1906年の間、ノース・メルボルンの連邦下院議員に選出され、1904年には労働党ワトソン政権の法務長官に就いた。1906年、連邦最高裁判事に任命され、翌年、連邦調停仲裁裁判所the Commonwealth Court of Conciliation and Arbitrationの長官となった。翌年、農機具メーカーのマカイH.V.McKayが「公平かつ妥当な」賃金を支払っているかどうかの判断が、彼の手にゆだねられた。このハーヴェスタ判決において、ヒギンズは、「文明化された社会における人間としての」労働者の権利を守ろうとした。彼は1家5人の家庭に必要な生活費を割り出し、非熟練労働者の最低賃金を日給7シリングと定めたのである。この最低賃金は最高裁によって違憲判決を受けたが、彼はその後もこの原則をかたくなに守り通した。
1914年に勃発した第1次世界大戦の戦禍は、ヒギンズにも降りかかってきた。 1916年、大戦に従軍していた1人息子、マーヴィンMervynがエジプトのマグダバで戦死したのである。また大戦は、労使関係に様々な緊張を強いた。労働時間などに関する意見の相違から、ヒギンズはヒューズ政権と衝突するようになる。 1920年、彼は調停仲裁裁判所の長官職を辞任するが、死去するまで最高裁判事の席には在籍し続けた。
ヒギンズは政治活動のみならず、文化に対しても幅広い関心を持ち、特に詩を愛好した。 1887年から1923年の間、母校メルボルン大学の評議員を勤め、女性大学院生の権利保護、公開講座の開設などにも尽力した。またアイルランド自治獲得運動の擁護者であった。
1929年1月13日、ヒギンズはヘロンズウッドの自宅で他界。享年78歳。息子マーヴィンの眠るドロマナ共同墓地に埋葬された。
藤井秀明00