オーストラリア辞典
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Health Care

医療



 シドニー入り江の西側に仮の設備が建てられるまで、植民地における最初の医療はテントで行なわれていた。1790年に80人収容のより恒久的な設備が建てられたが、その年に第2船団によって送られた大勢の病気の囚人全員を収容することはできず、多くの人はやはりテントに収容された。赤痢や腸チフス、壊血病と栄養失調が当時の主な病気である。この時期の医療は政府が任命した医師Surgeonによって行なわれていた。

 1797年に2番目の病院がドーズ・ポイントに建てられた。当初は軍の病院として計画されていたが、実際は全住民に開放されていた。しかしながら、この時期最大の偉業は、1810年のシドニーにおけるいわゆるラム病院の設立である。現存する旧造幣局とニューサウスウェールズ病院、シドニー病院がある場所に、6年を費やして建設された。ラム病院という通称は、建設に携わった人々が、主にラム酒の交易権によって支払いを受けた事実に由来している。これに続いて、1818年にはパラマッタに植民地病院が、1820年にはシドニー中央駅のある場所に、ニューサウスウェールズの慈善協会the Benevolent Society of New South Walesによって施療院が建設された。

 最初の精神病院は1829年にヴァンディーメンズランドで設立された。シドニーにおけるこの種の病院は、1838年のターバン・クリーク施療院the Turban Creek Asylumが最初である。植民地への囚人輸送が打ち切られた時(1840年にニューサウスウェールズ)、植民地当局は医療への政府の援助を削減する傾向にあった。その結果、部分的に私的団体、特に宗教団体による病院開設が促進された。もっとも、貧しい病人への政府援助の原則は廃止されることはなく、システムの一部として残った。

 1860年代のはじめ、複数の要因が医療の発展をもたらし、その発展はゴールドラッシュがもたらした人口急増による需要に支えられた。発展の要因には、細菌学、免疫学、麻酔や消毒などの外科処置における技術の発展や、看護の改善、医学教育の開始などが含まれる。かつて、看護は随行人か比較的健康な患者によってなされていたのだが、イギリスからルーシー・オズボーン率いる看護婦グループが、ナイチンゲールの患者ケアの原理を導入するために到着した1868年に、シドニー病院は最初の看護専門課程を設立した。また、1864年にメルボルンで最初の医学校が設立され、シドニー大学が1883年にそれに続いた。上記のような発展がなされた19世紀の後半から、首都にいくつかの大病院が設立されている。それらは私的あるいは公的な援助の下に維持される一方で、友愛協会friendly societyによる患者個人への援助が急増していった。

 19世紀末からの最大の転換は、全病院の維持における政府関与の増加である。連邦が病院の究極的な管理機構として、州にとって代わりつつあった第2次世界大戦後に、この傾向は特に顕著になった。例外は精神医学で、この分野は州に残された。1970年代に労働党によって導入されたメディバンク・システムは、普遍的な医療を政府が提供しようとするものであった。その後、医療分野における政府の役割は、労働党と自由党の重要な争点のひとつであり続けている。

 幾人かのオーストラリア人が医学の分野で偉業を成し遂げた。ハワード・フローリーHoward Floreyは、エルンスト・チェイン卿とともにペニシリン開発の先駆者であった。ノーマン・クレッグ卿は1940年代初めに母親の風疹と子供の先天的欠陥の関係について業績をあげた。マクファーレン・バーネット卿はジフテリア、小児麻痺、ワクチンの分野でパイオニア的な仕事をしただけでなく、オーストラリア一般での医療調査にも貢献した。ジョン・エクルズ卿Sir John Ecclesは神経医学において業績を残した。ウィリアム・マクブライドは1960年代に生殖コントロールにおいて先駆的研究をなした。

 松田真00