Heagney, Muriel Agnes
ヘグニー、ミューリエル・アグネス
1885-1974
ブリスベン生まれ。
労働組合員、フェミニスト。
1885年12月31日にブリスベンで生まれる。両親ともにアイルランド系の政治的な一家に生まれた。子供時代は、1890年代のストライキと大不況の時代であった。ミューリエルはメルボルンのリッチモンドの女子修道院で教育を受け、小学校の教師として働いたが、1915年に退職した。パブの主人で後に大工になった父パトリック・レジナルド・ヘグニー(1858-1922)は、早くから労働運動に参加していた。彼はヴィクトリア政治界で活動した。オーストラリア労働党のリッチモンド支部を設立し、労働党の候補者として議会に立候補し、労働党の執行部の一員となった。
ミューリエルは父親の政治的足跡を引き継ぎ、1906年、21歳のときに同じ労働党のリッチモンド支部のメンバーになった。1909年には、中央女性組織委員会に参加し、第1回ヴィクトリア女性労働会議にも出席した。1921年には、父とともにオーストラリア労働組合会議に出席した。父の死の1年後、1923年から1925年にかけて、彼女は海外に滞在した。ロシアを訪れ、ジュネーヴにある国際労機関(ILO)で短期間働き、1925年にはロンドンでの第1回イギリス連邦労働会議に、メルボルン労働組合評議会を代表して出席した。メルボルンに戻ってから1926年から27年にかけて、労働党のヴィクトリア中央執行委員会の役員となった彼女は、1928年にホノルルで開かれた第1回汎太平洋女性会議に出席し、労働組合の女性についての報告書を提出した。
ミューリエル・ヘグニーは男女平等賃金実現を目指す、オーストラリア女性の闘争に大きく貢献した。小学校を退職後、国防省の事務員として働いた。女性職員はたった1人だったため、働いているほとんどの女性が男性の賃金の半分しか受け取っていない頃に、彼女の給料は男性職員と同じだけ払われた。そのときから彼女は女性の平等賃金を確保するために、精力的に運動を起した。 1919年から20年にかけて、オーストラリア組合連合の調査員となり、基本給について連邦王立調査委員会に報告書を提出し、1923年と27年には衣料労働組合における男女平等の基本賃金を確保するために、連邦調停仲裁裁判所に必要な生活費の明細を提出した。不況の中での女性の苦境を懸念して、1930年失業女性救済基金を創設し、1935年には現在でも有名な女性雇用についての論文「女性は男性の仕事を奪っているか」Are women taking men’s jobs?を出版した。 1936年から1942年にかけて、ミューリエルはシドニーのクィーンズランド旅行者事務局で旅行主催者として働いた。 1937年には事務員組合連合の援助のもとで、男女平等賃金のための活動評議会設立を助け、1937年から49年にかけてその名誉書記官となった。 1941年には、ニューヨークで開かれた国際労働機関の会議に出席した。 1943年から47年にかけては、合同技術者組合のオーガナイザーとしてシドニーで働いた。メルボルンに戻った後は、中央女性組織委員会の書記官となり、労働党の中央執行委員会の一員となった。彼女の他の出版物には、『男女平等賃金』Equal pay for the sexes(1948)、『十字路に立つ仲裁裁判』Arbitration at the cross roads(1954)などがある。
ミューリエルは1974年5月14日、貧困の中で死んだが、1991年のオーストラリア国立図書館によるオーストラリア労働党の歴史の展示の中では、「オーストラリアの歴史の偉大な女性の1人」として大きな存在感を示していた。
田中沙依0801