オーストラリア辞典
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Hasluck, Paul M. C.

ハズラック、ポール


1905-93
フリーマントル、西オーストラリア生まれ。
歴史家、準州担当大臣(1951-63)、国防大臣(1963-64)、外務大臣(1964-69)、オーストラリア連邦総督(1969-74)。


 1905年、西オーストラリアのフリーマントルに生まれる。両親は貧しい救世軍の一員であった。彼は奨学金を得て、パース・モダンスクール、西オーストラリア大学で教育を受けた。その一方で、1922年から1938年まで『ウェスト・オーストラリアン』紙の記者として働いた。 1932年に結婚。彼は1926年の西オーストラリア歴史学協会の創設に尽力し、西オーストラリア大学歴史学部で講師(後には準教授)を務めた。彼は歴史家として、オーラル・ヒストリーの分野を開拓、先住民と白人入植者との関係についての研究成果(『黒いオーストラリア人』Black Australiansとして1942年に出版)を発表し、先住民の歴史に関する研究を進展させた。

 ジャーナリスト、歴史家としての活動の一方で、ハズラックは政治の世界でも活躍した。彼は1941年から1947年まで外務省で勤務、国連活動ではオーストラリアの代表となった。連邦政治の分野でも、1947年から1969年にかけて下院議員を務め、準州担当大臣(1951-63年)、国防大臣(1963-64年)、外務大臣(1964-69年)を歴任した。彼は準州担当大臣として、アボリジナルの人々の地位向上、パプア・ニューギニアにおける教育・行政サービスの促進に努力した。アボリジナルに対する政策は、当時としては「進歩的」な側面を持っていたが、後にはその同化主義的な政策が批判を浴びることになった。国防大臣、外務大臣としては、オーストラリアの地域関係を改善し、また、アメリカとの同盟、反共産主義、ヴェトナム戦争への軍隊派遣といった、保守的な政策を維持した。

 1968年、ハズラックはオーストラリア自由党党首の座を目指すが、国内政治における経験不足が懸念され、対立候補であったJ.G.ゴートンに敗れた。その翌年、新たに首相となったゴートンの指名を受けて、オーストラリア連邦総督に就任した。1974年に政治家を引退。彼は複数の十字勲章をはじめとする数々の栄誉を受け、1979年にはガーター勲章を授与されている。引退後は歴史家としての活動を再開し、晩年まで執筆活動を続けた。1993年に没した。

 主な著作として、『安全保障研究会』Workshop of Security(1948年)、『オーストラリアにおける先住民福祉』Native Welfare in Australia(1953年)、『政府と国民』The Government and the People(全2巻、1951、1970年)、『オーストラリア総督の任務』The Office of the Governor-General(1979年)等がある。

 津田博司0901