Hancock, William Keith
ハンコック、ウィリアム・キース
1898-1988
メルボルン生まれ。
歴史家。
オーストラリアの最も著名な歴史家の1人。ロンドン大学コモンウェルス研究所所長(1949-57)、オーストラリア国立大学社会科学研究所所長RSSS(1957-61)。主著に、Australia (1930)、Survey of British Commonwealth Affairs (全2巻、1937, 1940-42)、British War Economy (共著、1949)、Smuts (全2巻、1962, 1968)、Discovering Monaro (1972)がある。
1898年、英国国教会の牧師の息子として生まれる。メルボルン大学に進学し、アーネスト・スコットに師事した後、西オーストラリア大学で、エドワード・シャンの助手を務める。 1922年、ローズ奨学金を受けて、オクスフォード大学ベイリアル・カレッジに進み、1924年に、オーストラリア人としては初めて、オールソウルズ・カレッジのフェロー(特別研究員)に選ばれる。オールソウルズでは、ラウンドテーブル (帝国連合を推進する運動グループ)のライオネル・カーティスと出会う。在英中に訪れたイタリアでトスカナ地方の魅力に引かれ、出世作となるRicasoli and the Risorgimento in Tuscany (1926)を執筆する。同年、アデレイド大学の歴史学教授に就任。オーストラリアでは、イギリス帝国は連合すべきで、さもなくば分裂すると考えるカーティスと異なり、オーストラリア人が2つの国を愛することは不可能ではないとして、帝国意識と植民地ナショナリズムの調和を試みる。
1933年に再度渡英して、バーミンガム大学の歴史学教授に着任する。アーノルド・トインビーの勧めで執筆されたSurvey of British Commonwealth Affairs (第1巻Problems of Nationality, 1918-1936、第2巻Problems of Economic Policy, 1918-1939)は、人種、ネイション、市場といった近代的な力に焦点を合わせ、帝国を世界的なシステムと捉えた画期的な研究である。戦時中の1943年にペンギン社から出たArgument of Empireでは、自由を信奉するイギリスが帝国に対して果たすべき道義的責務を強調し、植民地統治の正当性をアメリカ合衆国に説く。 1944年、オールソウルズの経済史学教授に就任。その間、政府による第2次世界大戦民間史(History of the Second World War: United Kingdom Civil Series 全28巻)編纂プロジェクトの責任者となり、自らも、マーガレット・ガウイングとともに、British War Economyを著す。 1949年に、ロンドン大学コモンウェルス研究所の初代所長に選任される。 1954年には、ウガンダ総督アンドルー・コーエンとブガンダBugandaのカバカ(kabaka: 王)の対立を調停するための使節団を率いて現地に赴く。同年出版された自叙伝Country and Callingでは、20年以上も祖国を離れた自らを振り返り、イングランドでの知的充実とオーストラリアでの限られた学究的可能性との著しい対照を指摘する。
1957年に、オーストラリア国立大学の歴史学教授に着任するとともに、同大学の社会科学研究所所長に選ばれる。歴史学の枠にとどまらない学際的研究を推進し、その成果の1つとして、羊毛産業を分析したThe Simple Fleece (1962年、アラン・バーナード編)があげられる。また、オーストラリア人名辞典編纂プロジェクトを立ちあげ、マニング・クラークとマルコム・エリスを作業にあたらせる。その間に執筆された南アフリカ連邦の政治家ヤン・クリスチャン・スマッツの伝記(第1巻The Sanguine Years, 1870-1919、第2巻The Fields of Force, 1919-1950)は、アフリカ黒人不在の一面的な歴史を提示するに終わっている。 1965年に退官。キャンベラ南方の高地地方モナロウを描いたDiscovering Monaroは、環境史の草分け的研究といわれ、1974年のThe Battle of Black Mountainは、オーストラリア国立大学の背後の山の景観を守ろうとする通信塔建設反対運動の記録である。 1976年には、2冊目の自叙伝Professing History を著している。
宮崎章00