オーストラリア辞典
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Griffith, Samuel Walker

グリフィス、サミュエル・ウォーカー


1845-1920
グラモーガンシャー、ウェールズ生まれ。
政治家、法律家、クィーンズランド植民地首相(1883-88, 1890-93)、
連邦最高裁判所初代長官(1903-19)。


 19世紀末のクィーンズランドにおける最も著名な政治家・法律家の1人で、植民地首相および植民地最高裁判所長官を歴任。連邦結成運動の推進者でもあり、憲法は彼の草案がモデルとなっている。また、連邦最高裁判所の設立に尽力し、初代長官に任命される。

 1854年、独立教会派の牧師だった父とともにクィーンズランドのイプスウィッチに移住。シドニー大学に学ぶ。1867年にブリズベンで法廷弁護士の資格を得て、1876年に勅撰弁護士となる。法曹界で活動するかたわら、政治家としても頭角を現し、1872年に立法議会選挙に初当選して以来1893年まで議員を務める。1879年に自由党のリーダーとなり、1883年の選挙で保守派のマカルレイスMcIlwraith内閣を破り、首相に任命される(88年まで在任)。

 1884年に制定された公有地法(および85、86年修正法)は、自由保有権ではなく定期賃借権を規定することで、砂糖プランターや「スクオッター」と呼ばれた大牧場主よりも、「セレクター」と呼ばれた小農に土地入手の機会を与えようとしたが、前者の優勢を覆すことはできなかった。1885年には、太平洋諸島民(カナカ人)を砂糖農園労働者としてクィーンズランドに導入した、「ブラックバーディング」blackbirdingと呼ばれた制度を、1890年12月31日以降禁止する法を制定する。一方で前内閣の政策を受け継ぎ、イギリス・ヨーロッパからの移住を奨励し、中国人移民に対しては数を厳しく制限した。また、折からの不況で失業者が増加するのを見て、起こりつつある労働運動に素早く対処し、労働組合を合法化し、雇用者責任法(1886年)を制定した。しかし、労働党の進出により、労働運動に対するスタンスに微妙な変化が見られるようになる。1890年に意外にもマカルレイスとの連立で内閣を組織し(「グリフィルレイス」‘griffilwraith'と呼ばれた)、翌年の羊毛刈り職人のストライキでは、軍隊を出動してこれを鎮圧した。さらに1892年には、製糖業の深刻な不況を打開するために、太平洋諸島民の再導入を決定する。

 彼は、クィーンズランド人であると同時に、オーストラリア・ナショナリストであり、イギリス帝国主義者であった。1883年にシドニーで開かれた植民地間会議Intercolonial Conventionに出席し、ニューギニア併合を支持する。1884年の防衛法で海軍を創設し、翌年のスーダン危機の際には、植民地軍の派遣を本国政府に申し出た。1887年にロンドンで開かれた植民地会議に出席し、オーストラリア小艦隊増強協定の締結に貢献し、英領ニューギニア設立法案を起草する。また、連邦結成の主唱者の1人であり、オーストラレイシア連邦評議会Federal Council of Australasia設立法案を起草し、評議会議長を3度務めた。また、1891年にシドニーで開かれたオーストラレイシア(オーストラレイジア)憲法制定会議National Australasia Conventionにおいて憲法案を起草した。彼の草案はオーストラリア連邦憲法の骨格となった。。

 首相2期目の後は法曹界の方に再び活動の重心を移し、1893年から1903年までクィーンズランド最高裁判所長官を務め、1901年には枢密院顧問官に任命される。この間、クィーンズランド刑法典を編纂する。1903年に彼が起草した裁判所法が連邦議会を通過し、連邦最高裁判所が設立され、その初代長官に任命された。国制問題に関しては、一貫して州権を擁護する。1919年に辞任。翌年死去。

 宮崎章00