Griffin, Walter Burley
グリフィン、ウォールター・バーリー
1876〜1937
シカゴ、アメリカ生まれ。
建築家、景観建築家、キャンベラの都市計画の設計者。
アメリカの建築家であったが、1912年にキャンベラの都市デザインコンテストに優勝し、オーストラリアに招聘された。キャンベラの都市計画の中心的人物として様々なデザインを提出するが、1920年に辞職。オーストラリア、アメリカ、インドにおいて精力的に建築、設計を行った。
グリフィンは1876年に保険代理人の息子としてシカゴ郊外で生まれ、オークパークの高校を卒業後、イリノイ大学で建築を専攻した。1899年に同大学を卒業後、シカゴで仕事を始めた。1901年から1906年までオークパークの著名な建築家ライトの建築事務所に所属していた。ライトを中心とする当時のグリフィンらの建築スタイルは、プレイリー派Prairie Schoolとして有名である。グリフィンは個人事務所を1906年に設立し、東イリノイの州立学校の設計などを行った。
彼の妻であるマリオンMarion Lucy Mahony(1871-1961)も同じシカゴ生まれの建築家、設計士であった。彼女は1894年にマサチューセッツ工科大学の建築学科を卒業し、1895年からライトの事務所に所属していた。ライトはマリオンの能力を高く評価しており、同世代ではもっとも優秀な設計士、建築デザイナーと認めていた。グリフィンとマリオンは1911年に結婚し、その後共同で独創的な建築活動を展開した。
グリフィンは1912年5月にオーストラリア連邦首都デザインの国際コンペで優勝した。彼のデザインの構想は、1893年のシカゴ博覧会などの主要な立案者であり、都市美化運動の代表者でもあった、シカゴの建築家ダニエル・ハドソン・バーナムのデザインから得たものであった。優勝したグリフィンのデザインは、オーストラリアのそれまでの都市計画関係者の間で激しい議論を呼び起こした。とりわけ官僚たちは、グリフィンのデザインに替えて新しい都市計画案を採用させようと画策した。
1913年にオーストラリアの内務大臣代理ケリーW.K.Kellyによって、グリフィンはオーストラリアに招聘された。1913年10月にグリフィンは首都の設計・建築の責任者に3年契約で任命された。しかしながらグリフィンのディレクターへの就任は、それまでの都市計画に携わっていた専門委員会departmental boardの官僚の反感を招いた。1914年3月にフィッシャー政権が復活すると、新しく内務大臣となったアーチボルドW.O.Archibaldは、グリフィンの都市計画案の変更を命じた。また、議会の公共事業常任委員会は、グリフィンの下水システム計画や人造湖建設計画などを相次いで否決した。
1915年10月にヒューズ内閣のもとでグリフィンを取り巻く環境は若干好転した。1916年4月にグリフィンの契約は3年間延長され、首都建設に関する調査委員会はアーチボルドや官僚たちによる妨害を非難した。しかしながら、首相ヒューズと新しい国民党政府は、オーストラリアの戦争問題に専念しており、首都建設の推進には無関心であった。またグリフィンの擁護者であった内務大臣オマリーO'Malleyも1917年5月に選挙で敗北した。この年までにグリフィンは都市建設計画の主要な設計を終えていたが、植林を除いて彼の計画はほとんど実行されなかった。
1920年にグリフィンは都市建設の責任者を辞任した。皮肉なことに、その後連邦首都諮問委員会によってグリフィンの建設計画案を基礎として、キャンベラの都市建設は着実に実行された。
首都建設のディレクターを兼任しながら、グリフィンは1915年からメルボルンに個人事務所を開設した。そしてシカゴのかつての同僚やシドニーの建築家と共同で設計事業を広範に展開した。当時の彼のレターヘッドには「建築家、景観建築家─シドニー、メルボルン、シカゴ」と書かれていた。ニューサウスウェールズ州のグリフィスGriffithやリートンLeetonの都市計画は彼の設計によるものであり、アイオワやメルボルンなどでも設計を手がけた。彼の建築物のインテリア・デザインなどは妻のマリオンが行っており、オーストラリアに移住後もマリオンは常にグリフィンの活動を支え続けた。カールスクレイグCastlecragに引っ越した後、マリオンはバレエ教室や古典ドラマ上演などのいくつもの文化活動をコミュニティーの指導者として展開している。
1920年にディレクターを辞任した後もグリフィンはメルボルンで活動を続け、1924年には7階建てのレナード・ハウスLeonard House、映画館キャピトル・シアターCapitol Theatreなどを設計、建築した。また1920年に大シドニー開発有限会社を設立し、ミドル・ハーバーの3つの岬の住宅団地の建設に着手している。最初の住宅団地は1921年に自然景観との調和を掲げて着工され、グリフィン特有の岩やコンクリート製の家が土地購入者の要求どおりに建設されるシステムが導入されていた。しかしながら、当時はグリフィンの建築方式は受け容れられず、1937年までに340の敷地に19の家が建設されただけであった。
1935年10月に彼はインドのラクナウLucknow大学の図書館の設計に招聘され、オーストラリアを離れた。しかし、インドでもグリフィンはキャンベラで直面したのと同様な政争に巻き込まれ、彼の独創的な設計は一部しか実行されなかった。それでもインドに魅せられたグリフィンとマリオンは、邸宅やバンガローの設計を精力的に行った。グリフィンは1937年2月にラクナウで腹膜炎のため死亡した。オーストラリアに戻った妻のマリオンも1938年にシカゴに帰国した。
生前のグリフィンの評価は低かったが、後に彼の建築や設計はオーストラリア建築史において評価されている。1963年に発行されたキャンベラ命名50周年の記念切手にはグリフィンの肖像が描かれており、またキャンベラ市中央に位置する人造湖には1964年に彼の名前がつけられた。
菅原潤哉00