Grey, George
グレイ、ジョージ
1812-1898
リスボン、ポルトガル生まれ。
探検家、第3代南オーストラリア総督(1841-1845)、ニュージーランド総督(1845-53, 1861-68)、ケープ植民地総督(1854-61)、ニュージーランド首相(1877-79)。
1812年4月14日、ジョージ・グレイ中佐とその妻エリザベス・アンの1人息子としてリスボンに生まれる。父はグレイが生まれる1週間前にバダホスで殺され、母は1817年に準男爵であったサー・ジョン・トマスと再婚した。1826年、サンドハーストの陸軍士官学校に入学。1830年に少尉としてアイルランドの第83連隊に配属され、1833年には中尉に昇進するが、同僚の士官や過酷な任務にはなじまなかった。
グレイはアイルランドの農民への共感から、組織的な植民地建設による彼らの救済に興味を抱くようになった。チャールズ・スタートによるオーストラリア探検に触発された彼は、1836年にアイルランドを離れ、植民地省に対して、入植地建設のための西オーストラリア探検の実施を求めた。グレイの提案は王立地理学協会の支援により承認され、彼は2度にわたる探検を行ったが、この探検は失敗に終わった。グレイは後に、この探検に関する報告を執筆。また、西オーストラリアの先住民の言語に関する著作も残している。
1840年、アルバニーで弁務官を務めていたグレイは、イングランドへの帰国命令を受ける。その帰国の途上、彼はジョージ・ゴーラ統治下の南オーストラリアで歓待を受けた。その影響もあって、グレイはイングランド帰国後に陸軍を退役し、南オーストラリア総督に志願する。翌年、グレイはゴーラの後任として、南オーストラリアに赴任した。当時の南オーストラリア財政は危機的な状況にあり、グレイはその対策として徹底的な支出の削減を行った。この削減の対象には失業者対策費なども含まれていたため、彼の政策は多くの非難を招いた。しかし、彼は植民地省の支援を受けて、最終的には財政の健全化に成功する。また、先住民の子供たちに白人の手で教育を施し、大人たちを白人入植者のもとで労働に従事させる政策を実施した。グレイの意図によれば、この政策は先住民の文明化に貢献するはずであったが、結局失敗に終わる。彼の南オーストラリアでの治世は1845年まで続いた。
その後、グレイは1845年から1853年にわたってニュージーランド総督を、続く1854年からはケープ植民地総督を務め、1861年には、再び総督としてニュージーランドに赴任するものの、1868年に解任された。イングランドへ一時帰国した後、1874年から1894年までニュージーランド議会において議員を務め、1877年にニュージーランド首相となった。1891年にはオーストラリア連邦憲法制定会議に出席している。1894年にイングランドへ帰国し、4年後にこの世を去った。
主な著作として、『南西オーストラリアの先住民の語彙』(1839年)、『1837、1838、および1838年の北西、西オーストラリアにおける2度の探検に関する日誌』(1841年)がある。
津田博司0901