Grainger, George Percy Aldridge
グレインジャ(グレインジャー)、ジョージ・パーシ・オルドリッジ
1882-1961
ブライトン、メルボルン生まれ。
作曲家、ピアニスト。
オーストラリア生まれの作曲家で、ヨーロッパ、特にアメリカにおいて、作曲家として大きな成功を収めた人物。
パーシ・グレインジャは1882年、建築家ジョン・グレインジャの1人息子として生まれた。彼は母親からピアノの手ほどきを受け、1892年から1894年までルイ・パブストのもとでピアノを学んだ。1894年には、メルボルンのマソニック・ホールで初めて大衆の前で演奏した。1895年、グレインジャは音楽の勉強のために母親とともにドイツに渡ったが、その後彼がオーストラリアを住所とすることは2度となかった。同年、フランクフルト・アム・マインのホッホ教授の音楽院に入学した。彼の教師には、イヴァン・クノール、ジェイムズ・クヴァストも含まれていた。
1900年のフランクフルトのソロ・リサイタルで、グレインジャの学生生活は終わりを告げた。1901年から1914年にかけては、グレインジャは主にロンドンで生活し、その地でコンサート演奏家としてのキャリアが始まった。その間、1903年にはベルリンでフェルッチョ・ブゾーニの指導を受けた。ヴィルトゥオーゾとしての彼の名声は、晩年のグリーグによる絶賛により高められた。1907年のリーズ・フェスティヴァルでの演奏では、グリーグのピアノ曲の「最大の演奏家」としての名声を確立することになった。同年グレインジャは、フレデリック・ディーリアスとも公私両方で親交を持つことになる。
グレインジャが初めてデンマークに渡ったのは、1904年のことである。この後、ヨーロッパ音楽旅行では、スカンディナヴィアで定期的に演奏するようになった。また1913年には、フィンランド、ロシアでコンサートを開いている。
グレインジャ自身の曲は、1902年にはすでに演奏が行われているが、作曲家としての彼の名前が広く知られるようになったのは、1912年と1913年のバルフォア・ガーディナーの合唱団とオーケストラのコンサート以降のことである。彼の名声が高まり、ロンドンのショット・アンド・カンパニ社 Schott&Co. は、グレインジャの用意する曲をできる限り早く出版し始めた。
1914年、突然グレインジャーはアメリカに渡り、1917年から1919年には合衆国陸軍音楽隊で働いた。1918年には、アメリカ市民権も得ている。その間、1917年には彼の父親がメルボルンで病死し、1922年には彼の母親が自殺した。1924年のツアーでは新しいタイプの「レクチャー・リサイタル」を開始。また、1926年のツアーでは、スウェーデン生まれの詩人で画家でもあるエラ・ヴィオラ・ストレームと知り合い、1928年には結婚した。2人の間には、子はなかった。グレインジャは、1934年からその翌年にかけて、オーストラリアに帰還し、オーストラリア放送委員会 ABCのためにツアーを行った。このツアーからの収入で、メルボルン大学の敷地内に「音楽博物館とグレインジャ記念館」を設立することになる。
グレインジャはその後半生には、2つの大規模なプロジェクトにそのエネルギーと時間とを注いだ。1つは、メルボルンの記念館の完成。もう1つは、彼自身が「フリー・ミュージック」と呼んだ、固定されたピッチ、拍子、人間による演奏といったものにとらわれない音楽の追究である。そのため、彼は「フリー・ミュージック」演奏のための自動演奏機械を作成した。1938年には、先述の「グレインジャ記念館」が完成、開館された。1940年代、1950年代にはコンサート活動は、次第にその規模、回数は減少し、グレインジャもその晩年は、病気がちの生活を送るようになった。1960年には、最後のコンサートが行われた。1961年2月20日、グレインジャは癌のためホワイト・プレインズ病院で死去した。
先述のようにグレインジャは、ヨーロッパ、スカンディナヴィア、オーストラレイジアへと広く音楽旅行に出ているが、その作曲家としての名声は、第1次世界大戦の前に確立された。彼が作曲した音楽は、多くが前衛的なものであり、合唱曲、管弦楽曲、室内楽曲や、軍楽隊のための曲やピアノ曲が多く含まれるが、既成のジャンルや形式を嫌ったため、比較的短い作品が多い。最もよく知られるのは、ピアノ曲「カントリー・ガーデンズ」である。またグリーグの影響から、イギリスやデンマークの民謡を多く収集し、その「セッティング(編曲作品)」を作っている。また、キプリングの詩も30曲以上編作曲している。
中村武司0601