Governor and Governor-General
総督とオーストラリア連邦総督
ニューサウスウェールズ植民地の総督Governorは、1788年に誕生した。初代総督アーサー・フィリップには、政府からの職務任命書および国王からの命令によって、さまざまな権限が与えられた。それには、すべての官僚の任免、囚人に対する恩赦、貿易規制、土地所有権の認可、戒厳令の宣言、総督が植民地内の最終審の役割を果たすことなどが含まれた。このように、イギリス国王の名代および流刑植民地の司令官であった総督は、国務大臣による監督に従いつつ、独裁的な権力を行使した。こうした総督に対して、植民地官僚や軍人、植民地ジェントリが反抗することもあった。例えば、1808年のラム酒の反乱で総督ウィリアム・ブライが総督職から追われた。1814年以降は、それまで総督が持っていた権限のいくつかが植民地官僚に与えられた。その代表的な例が、王立植民地国制法による1824年の任命制立法評議会の設立、1828年におこなわれた同評議会に対する総督の優越権の撤廃である。各植民地で制定された憲法により、1855年から1856年にかけて自治政府が創設された。それ以降、初めて総督が立法府に従属するようになったといえる。
総督は、議会の召集・解散、大臣の任免、植民地政府の予算の認可などの権限を憲法によって与えられていた。本国の政府は国王大権を制限したが、植民地内閣に関する事項では、総督の権限が及ぶ範囲は不明確なままであった。総督は植民地政府を罷免する権限以外にも特権を持ち、たとえば減刑や帝国の問題などについても、さまざまな権力を行使した。総督が持つこうした権限の一部は国王の命令によって制限を受けた。帝国に関連するような問題については、国王の承認を得る必要があり、本国政府は総督の行為に事実上の拒否権を有していた。このように総督を本国が統制することによって、ロンドンで決定される帝国政策の推進が可能になった。1870年代や1880年代にかけて、これらの権限の行使をめぐり総督と植民地政府との衝突がたびたび発生する一方で、植民地内閣の助言のもとで行使される総督の権限が多くなった。1892年に出された新しい国王命令が、こうした総督と植民地内閣との慣例を強化した。
1901年に連邦制が施行されると、従来の総督は州総督となった。当初、総督は本国の内閣の助言にもとづき国王が任命したが、のちには州政府の助言にもとづいて国王が任命することになった。総督がもつ権力は、自治政府と議会の導入によって一定の制限を受け、その後さらに、総督職に付随する権能は制限されていった。しかし、法律上ではいまなお、総督が国王の代理としてオーストラリアの各州に存在しており、理論的には総督が一種の国王大権によって行動することも可能である。そのような例として有名なのが、1932年にニューサウスウェールズ総督サー・フィリップ・ゲイムPhilip Gameが、州の財政問題を理由に、首相ラングを解任した事例である。
オーストラリア総督Governor-Generalは、オーストラリア連邦における国王の代表者を意味する名称である。この職は1901年の連邦制施行とともに創設された。ただし、1850年代にオーストラリアであらたに2つの植民地が創設され、ニューサウスウェールズ総督がこれらの新植民地を一時的に統治するに際して、この言葉がチャールズ・フィッツロイとウィリアム・デニスンに与えられたこともある。
1920年代後半までは、本国の内閣の助言にもとづき国王がオーストラリア連邦総督を任命していた。しかし、1926年の帝国会議を受けて、1930年にスカリン首相が総督を推薦する慣習を確立して以来、オーストラリア連邦首相が指名した人物を国王が認可するようになった。1931年のウェストミンスター憲章には、こうした国制上の「進化」が盛りこまれていた。ただし、オーストラリアは1942年になって初めて公式に同憲章を批准している。このウェストミンスター憲章によって、オーストラリア連邦総督は連合王国政府の代表というよりむしろ、君主を代表するものとして位置づけられた。しかし、オーストラリア連邦総督には、議会が制定した法の認可を拒否する権限が与えられていた。実際に起きた総督特権の行使の例としてよく知られているのが、1975年にオーストラリア連邦総督ジョン・カーJohn Kerrが、予算を通過させることができないという理由で、ホイットラム労働党内閣を罷免した事例である。
連邦や州において、オーストラリア人が総督職に就任するのは、第1次世界大戦後になってからであった。最初のオーストラリア人のオーストラリア総督は、アイザック・アイザックスIssac Issacsであった。彼は、労働党政権によって指名されている。しかし、労働党以外の政党がオーストラリア人を総督職に就任させるには、まだなお時間が必要だった。ケイシーCasey卿以来、すべてオーストラリア人が就任している。なお、初期の植民地では、副総督lieutenant-governorが植民地の統治者となった場合もある。ニューサウスウェールズの管轄下にあった(1825年まで)ヴァンディーメンズランド、事実上自立した植民地であったが、1832年までの西オーストラリア、1855年までのヴァンディーメンズランド(タスマニア)やヴィクトリアでもこの名称が用いられた。
坂本優一郎00