Gordon, Adam Lindsay
ゴードン、アダム・リンジー
1833‐1870
ファイアール、アゾレス諸島生まれ。
騎手、詩人、政治家。
大胆さが売り物の障害競走騎手であると同時に、オーストラリアのバラッドの基礎を作り上げた詩人。性格的弱さから常に金銭的には貧窮状態にあり、最後には自殺した。
いとこ同士であった両親の唯一の子供として、母方の祖父(かつて西インド諸島のBerdiceを統治していた)がプランテーションを所有していたアゾレス諸島に生まれ、裕福な家庭で育った。父はヒンドゥスタンで教師をしていたこともある元ベンガル騎馬兵隊長であり、母は20,000ポンドの遺産を受け継いでいた。イギリスのパブリック・スクール・
システムで教育を受け、父がヒンディ語を教えていたチェルタム・カレッジに入学、その後ウリッジの王立軍事アカデミー、ロイアル・ウースター・グラマー・スクールを卒業した。この青年期に向こう見ずな性格が形成されると同時に、この上品な環境の中で早いうちから乗馬を習い始め、騎手としてのキャリアをスタートさせた。
彼が起こした競馬、金、女などのトラブルのため、両親は20歳の時に彼を南オーストラリアに送った。1853年11月11日にアデレイドに到着した。2週間後、南オーストラリア騎馬警察隊に入隊し、マウント・ガンビア地方ペノウラPenolaに駐在した。イギリスの上流階級から厄介者としてオーストラリアに送られてきた多くの「仕送り生活の男達」remittance menと同じように、彼も本国の家族からの援助を父親が死ぬまで受けつづけ、快適な生活を送った。1855年にはその職を辞し、南西部で調教師の職についた。そして障害競走騎手としての活躍し、数々のレースで勝利を挙げたが、その向こう見ずな性格から負傷することが多かった。詩人として名を馳せるかなり前から騎手として有名になり、大胆で恐いもの知らずな騎手として伝説となった。
1857年から1859年の間に両親は死亡し、7,000ポンドの遺産を手に入れ、この遺産は政界への進出を可能にした。1862年には乗馬の名手のマーガレット・パークと結婚した。1864年に彼はポート・マクドネル近郊のコテージに住み着いた。1865年には南オーストラリア議会下院議員への立候補を要請され、これを受け入れた。2ヵ月間は騎手と選挙活動を平行して行い、両方で成功を収めた。1866年までには、大都市で実力のある馬を集めたレースが定期的に行われるようになり、彼もアデレイド、バララット、メルボルンのレースに参加し、恐いもの知らずな騎手としての名声を高めた。
一方、J.E.テニソン・ウッズと出会い、文学への関心を高めていた彼は、1864年から道楽半分に詩を書きはじめ、最初の作品『確執』はBorder Watchに掲載された。1867年には、相次いで2巻の詩集AshtarothとSea Spray and Smoke Driftを刊行した。彼の詩の多くはオーストラリア的ではないと言われるが、「病を患うカウボーイ」はオーストラリア・バラッド伝統の開祖として崇められている。
また、1864年には土地に投資し、抵当権を手に入れ、1866年には議員を辞職し、西オーストラリアで羊の飼育を始めるなど、いくつかの投資を行ったが失敗に終わった。これらの損失と競馬は両親の遺産を食いつぶした。1867年11月にはバララットで貸し馬屋を始め、1868年1月にはバララット軽騎兵隊に入隊した。3月に昇進したが、落馬によって傷を負った。4月14日には娘が死去した。これらの不幸と貸し馬屋の失敗により、9月25日に妻は彼のもとを去った。一方で、彼の名声は拡大し続けた。私的な困難にも関わらず、彼は騎手の仕事を続け、その大胆さがその名声に箔をつけた。1869年5月にヴィクトリアのブライトンに移り、そこでマーガレット・パークと再び暮らし始める。彼は詩や散文も書きつづけたが、1870年3月12日には再び騎乗中アクシデントに見舞われた。
これらの数多くの不幸が彼を失望させ、鬱状態に陥れた。スコットランドの遺領の確保に失敗したことは、金銭面での貧窮状態に拍車をかけ、1870年6月23日にBush Ballads and Galloping Rhymesを刊行した翌朝、ブライトンのビーチで自殺した。
オーストラリア・バラッド伝統の開祖として崇められる「病を患うカウボーイ」を除いて、ゴードンの詩はほとんどオーストラリア的ではないにも関わらず、そのバラッドは人気を博し、彼の死後長い間、学校の読み物などに取り上げられた。彼の人気は高貴な家柄、ロマンティックな若年時代、悲劇的結末によって強められた。1934年5月11日には、ウェストミンスター寺院に胸像を残す唯一のオーストラリア詩人となった。そんな彼の文学的名声は今では衰えた。ロマン主義的でヴィクトリア的な詩のイミテーションでありながら、細部における洗練のなさが目立った彼のより野心的な詩よりも、精力的で力強いバラッドの方が対照的に人気を博した。彼の詩人としての成功と失敗は、時代のテイストや関心を繁栄していたのである。
松田真・新村祐規1201