オーストラリア辞典
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Gipps, George 

ギップス(ギプス)、ジョージ


1791-1847
ケント州、イングランド生まれ。
ニューサウスウェールズの総督(1837-1846)


 ジョージ・ギップスは、1791年聖職者であったジョージ・ギップスGeorge Gippsの長子として生まれ、ウィリアム・ブロートンと同じく、カンタベリーのキングス・スクールで教育を受けた後、ウリッジのロイアル・ミリタリー・アカデミーに入学、1809年工兵隊に将校として配置された。ナポレオン戦争に従軍後、西インドに派遣されその能力を発揮し、カナダにおけるゴースフォード委員会報告の作成に参加する。その功績を認められ、ナイトに叙せられ、1837年10月5日ニューサウスウェールズ総督に任命された。ギップスはイギリス本国で活発化していた植民地改革運動の流れに身を置く、「改革派」総督の1人であった。

 彼の8年に及ぶ在任期間中、オーストラリアにおける植民地政策は大きく転換した。1840年、一部地域を除き、ニューサウスウェールズへの囚人移送が廃止され、1843年には、新しい立法評議会の選挙(議員の3分の2が選出され、3分の1は任命)が実施された。流刑植民地から自由移民の植民地への転換に伴い、新たな政策が必要となったのである。

 ギップスは、土地を新たに開拓する必要性から、ニューサウスウェールズの南東部やクィーンズランド、北部地域、ヴィクトリア、タスマニアなどの探検を支援した。従来の入植地の境界を拡げることにより得た土地を、国王の所有地に組み入れ、こうした土地の売却から得た資金を、移民の導入を促進するために用いることが彼のねらいであった。しかし、1840年代の深刻な不況は、土地の販売に悪影響を及ぼし、移民の流れも事実上ストップした。

 ギップスの拡張政策の推進は、スクオッターとの間に、土地の所有権をめぐる軋轢を引き起こした。かれらは、ギップスの土地政策によって、自分たちの土地の占有権が脅かされることを危惧したのである。スクオッターのグループは、立法評議会内で最大勢力を形成しており、ギップスの政策にことごとく反対姿勢をとっていた。

 白人入植者が土地の開発を進めるにつれて、アボリジナルは次第に辺境に追いやられるようになっていたが、入植地の急速な拡大によって、以前にもまして両者の間に抗争が起こるようになった。1838年にマイオール・クリークの虐殺が起こったとき、ギップスは殺害されたアボリジナルを文字通り「イギリス臣民」として扱い、主犯格の白人7人を異例ともいえる死刑に処した。また、ポートフィリップでは、G. A. ロビンソンらをアボリジナル保護官に任命し、アボリジナルの保護に努めたが、実効はあがらず、1849年には、この制度は廃止された。

 植民地政策の転換によって表面化した社会問題は他にも数多くあったが、なかでも、ギップスが積極的に関与したのが、教育問題である。彼は、宗派ごとに分かれた民営の学校制度に代わって、包括的な公教育制度を導入しようとした。しかし、教育内容をめぐって宗派間で折り合いがつかず、また、新たな歳出を増やすという理由でスクオッターからの反対にあい、断念せざるをえなかった。

 ギップスの在任中、植民地の南部、後のヴィクトリアにあるポートフィリップ地区の住民は、シドニーによる統治に反感を抱き、しばしばギップスと対立したが、その統治の責任者であったラトロウブは、ギップスと親密な信頼関係を築き、2人の関係はきわめて安定していた。

 1846年、彼は重病に陥り、後継者を待たずにイギリスに帰国し、翌年死去した。

  水野祥子00