Germany's Pacific Possessions issue
ドイツ領南洋群島問題:日豪関係
1914年、ヨーロッパで勃発した第1次世界大戦により、南太平洋にあったドイツの植民地の処分が、オーストラリアの安全保障問題として浮上した。ドイツ領南洋群島は、マリアナ、カロリン、マーシャルの諸島と、ニューギニア島の北東部に及んだが、ドイツが敵国となったことで、オーストラリアはその海上交通路をふさがれることとなった。オーストラリアはイギリスに艦隊の派遣を要請したが、イギリスはすでにヨーロッパ戦線への対応で手一杯であった。
一方、日本は第1次世界大戦を勢力拡大の好機と考え、日英同盟を理由に参戦し、青島や南洋群島に進撃した。日本海軍は、イギリスとの取り決めにより、南洋群島の赤道以北を占領し、同時に南太平洋のドイツ艦の哨戒活動に従事した。これにより、オーストラリアはドイツの脅威からは救われたが、日本軍はより危険な存在と考えられ、日本の脅威におびえることになったのである。
オーストラリアとニュージーランドも1914年9月までには、赤道以南の南洋群島を占領し、ハーコート総督は、南洋群島全域の占領と日本軍の撤退をイギリスに要求したが、イギリスは、海軍力の不足と同盟国である日本の立場を考慮して現状維持を指示した。そしてイギリスは、オーストラリアにはからないまま、1917年に、日本の赤道以北南洋群島の領有を支持するという内容の秘密了解を日本と交わした。
1915年に首相となったヒューズは、「太平洋モンロー主義」を掲げ、日本の南進に猛烈に反対した。赤道以北の日本占領は認めざるをえなかったものの、1919年に開催されたパリ講和会議では、日本に対抗するために文字どおり獅子奮迅の活動をした。ヒューズは、領土の非併合を主張するアメリカのウィルソン大統領を真っ向から非難し、南洋群島の完全な支配権を要求した。それは、安全保障上の意味もあったが、より重要だったのは、南洋群島の門戸を開放させないことで白豪主義を堅持することであった。
交渉は難航したが、南アフリカ代表のスマッツが提案した委任統治方式が最終的には議論の焦点となった。委任統治方式には、オーストラリア、日本ともに難色を示したが、文明の発展が著しく遅れ、かつ文明国より隔絶された地域に適応されるC式委任統治方式が、委任受任国の事実上の支配を認めるものであったため、妥協が成立し、赤道を境界にドイツ領南洋群島は日・豪・ニュージーランドの委任統治地域となることになった。
ヒューズが妥協したのは、国際連盟の監視下におかれる方が、日本の自由な活動を制限しやすく、軍事基地の施設禁止も可能だと考えたからであった。結果的には、1921年のワシントン会議で、太平洋上の諸島における非武装化が決められ、南洋群島問題は一応の解決をみた。
しかしその後、日本は1933年に国際連盟を脱退しても委任統治を続け、太平洋戦争が勃発すると、南洋群島は軍事基地となり、オーストラリアへの攻撃の前線基地となった。
酒井一臣01