オーストラリア辞典
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gender in sport

ジェンダーとスポーツ



 スポーツの領域においても男女の格差は存在する。植民地時代の初期からスポーツは男性中心の活動であり、スポーツを通して男らしさが形成され再生産されてきた。女・男というジェンダーによる二分化にも、スポーツは大きな役割を果たしている。

 当初より男性のスポーツは、強壮さ、競争性、自己信頼、独立性、人格形成などと結びつけられてきた。1850年代から、中産階級の改革者たちは、規律正しく道徳的な社会を形成するにはスポーツを振興すべきだと主張した。スポーツを通しての、リーダーシップ、男性間の連帯、支配と規制などの能力を養成することが試みられた。主要なスポーツは競争的で、力強さが何よりも重視される。また一方で、オーストラリア男性に人気のフットボールのようなスポーツはチームを組んで行われるが、これを通して男性間の連帯が体験されるとされていた。

 男性にとって多くのスポーツが競争的でチーム・プレイを証明するものであるのに対し、女性に奨励されたのは健康維持のための穏やかな運動であった。当時、女性の教育は出産能力の低下につながると考えられており、その対抗策として少女に軽い運動が奨められたのである。例えば、1875年にメルボルンのプレスビタリアン・レイディーズカレッジは、様々な運動施設が備わっていることを宣伝している。ただし当時の女性向け運動着を着用すると、激しい運動を行うことは困難であり、女子学生を淑女らしく振る舞わせるという目的から逸脱するものではなかった。スポーツは、支配的な男らしさの観念を構築し、同時に女性は消極的で運動能力がないという、伝統的な女らしさの観念を強化してきた。女性らしいことを軽蔑することによって、暗に男らしさを賞賛するのである。1870年に、あるフットボール選手は「フットボールは基本的に世界中で1番危険なゲームだ…女々しく腰抜けの男には向かない」と述べている。

 しかしながら19世紀後半を通じて、より自由度の高い運動着の出現とともに、女性はアーチェリーやゴルフ、サイクリング、テニスなどの様々なスポーツに興ずるようになり、ホッケー、クリケット、野球なども人気を博した。最初の女子クリケットの試合が、1874年にベンディゴウで開催されたと報告されている。

 女性は徐々に様々なスポーツを行うようになったが、それでもやはりスポーツは主に男性のものであった。2000年9月にシドニー・オリンピックが開催され、キャシー・フリーマンをはじめ多くの女性選手が活躍したが、 第1回アテネ大会(1896年)では女性の参加は許されていなかった。五輪の父、クーベルタン男爵は、国際オリンピック委員会(IOC)会長在任中に発表した論文で、「女性の役割は男性の偉業をほめたたえること」「女性の参加は五輪の品位を下げるだけ」とさえ述べていた。初の女性参加は第2回パリ大会(1900年)からであるが、オーストラリア人の女性選手が初めて参加したのは1912年の第5回ストックホルム大会からであった。このとき2人の水泳選手、ファニー・デュラックFanny Durackとミーナ・ワイリーMina Wylieが出場し、それぞれ金・銀メダルを獲得した。1928年に陸上競技への参加が認められ、徐々に女性参加種目も増加していったが、1988年になっても女性の陸上種目数は18にすぎなかった(男性は24種目)。このような境遇にもかかわらず、オーストラリアの女性選手はめざましい成果を収めている。参加種目数は全種目数の24%で、全選手数の21%しか占めていないにもかかわらず、女性選手は64の金メダルのうち25個(40%)を獲得しているのである。

 男性の優位は競技種目数のみならず、オリンピックの運営面でも顕著であった。1981年にサマランチ会長が女性を委員に指名するまで、国際オリンピック運営委員会で活躍する女性はいなかった。このような状況であったがゆえに、アトランタ五輪直前の総会において、サマランチ会長は「2000年末までに、執行部の女性役員を全体の10%以上に増やし、2005年末には20%以上に引き上げなくてはならない」とする動議を提出した。現在、「女性とスポーツ作業部会」が女性役員を増やす計画に取り組んでいる。

 藤井秀明00

関連リンク:

国際オリンピック委員会

日本オリンピック委員会