オーストラリア辞典
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Gawler, George

ゴーラ、ジョージ


1795-1869
イギリス生まれ。
南オーストラリア総督(1838-41)。


 ゴーラは王立士官学校で学んだ後、73連隊のキャプテンだった父親と同じく1812年に旗手として軍に入った。その後ポルトガル、アイルランド、カナダへ赴任した。この間、病気療養のため一時現役を退いており、それを契機に熱心な福音主義者となった。イギリスでも勤務したが、1838年、ジョン・ハインドマーシュ初代総督に代わり、2代目の南オーストラリアの総督となった。また土地売却とその収入による移民労働者の導入などを行う、南オーストラリア会社の現地代表も兼任した。つまり彼は総督の権限に本来別の役職である現地代表の権限を結合して、ハインドマーシュを悩ませた権限の分散を終わらせたのである。

 1836年に建設された南オーストラリア植民地は、ゴーラが着任した時、彼の想像した以上の財政危機にあった。半年間ですでに予算以上の支出がなされており、彼はこの状況を非常事態だとみなし、本国の命令を無視した支出を行うことにした。

 また土地測量が滞っていたため、4,000人以上がアデレイドの周りで一時しのぎの生活をしていた。ゴーラは測量部門の長となって、これを再組織し、チャールズ・スタートを説得して測量長官にした。彼に加えてゴーラは多くの測量技師を雇ったが、1839年には本国の命令により解雇した。しかし結果は残った。12ヵ月で200,000エーカーを測量し、1841年5月までに7,000平方マイルを地図に記載し、500,000エーカー以上を区画に振り分けた。しかし、費用はその期間に認められている全予算を超えた65,000ドルに達した。

 また送り込まれた膨大な移民もゴーラを悩ませた。1838年に2,800人、1839年に4,600人、1840年に3,000人と、赴任後2年半で人口は15,000人を超えた。会社の現地代表として彼は移民を港から町に送り、食料と家を与え、労働市場が彼らを吸収できなければ、低い賃金で雇用した。しかし費用が莫大なものとなり、配給などを制限せざるをえなかった。

 1840年には不作による食糧危機が南オーストラリアで起こり、ゴーラは小麦輸入のために商人のグループに3,000ドルを前払いし、穀物輸出を厳しく規制した。規制はその年の終わりには緩められたが、価格が彼の予想を越えて跳ね上がることとなった。

 1839年には土地販売が突然落ち込んだ。ウェイクフィールドと彼の支持者がニュージーランドに関心を移したからである。また植民地にはもはや豊穣な土地が残っていないという印象が広がった事もその原因であった。土地販売の低下は、南オーストラリアへの資本の流入の低下を意味した。この問題に対してゴーラは、アダム・スミスの著書の彼流の解釈によって、政府支出を拡大させるという方法をとった。

 間に合わせの建物を不十分かつ非経済的と拒絶したゴーラは、長く植民地の要求に応えられるよう、1841年までに数多くの立派な公共建築物を建てた。そのリスト初めには10,000ドル近く費やした総督公邸があった。公共事業は移民労働者に仕事を与えたが、ゴーラの「贅沢かつ公私をわきまえない支出」は非難された。

 1841年までに南オーストラリアは、非常によく組織され繁栄する植民地となったが、 当時南オーストラリアには厳しい財政問題があり、ロンドンの植民地省などから非難を受け、1841年に解任され帰国した。そして2度と公職に復帰することはできなかった。イギリスでは慈善活動や宗教活動に余生をささげた。彼の後任のジョージ・グレイはゴーラの失政を非難したが、その多くは根拠のないものであった。

 西川俊紀0701