Gallipoli Campaign
ガリポリ作戦、ガリポリー作戦
ガリポリは第1次世界大戦における激戦地であった。オーストラリア軍はこの戦いに参戦し、数多くの戦死者をだした。オーストラリア軍とニュージーランド軍は連合して戦い、その英語の頭文字からANZACと呼ばれた。アンザックはイアン・ハミルトン将軍指揮のもと、イギリスやフランスの軍隊の中にくみこまれ、1915年4月25日にガリポリ半島の海岸(後にアンザック・コウヴと呼ばれる)に上陸した。
ガリポリ作戦の目的は、南から上陸しようとするイギリス軍本隊の陽動作戦として、トルコの防衛軍をひきつけることにあった。この作戦が成功すれば、ロシアへの補給路が開かれ、西ヨーロッパにおける塹壕戦の膠着状態を打破し、勝利を得られるはずであった。しかし、複雑な地形やトルコ軍の堅固な防衛に悩まされ、軍は海岸を越えて進むことができず、膠着した血みどろの激戦が繰り広げられた。1ヵ月の間に何百人ものオーストラリア人の命が奪われ、その中にはオーストラリア軍司令官ブリッジズ、勇敢な救護隊員であったシンプソンなども含まれていた。
チャールズ・ビーンのような記者たちがその戦いに随行しており、彼らはオーストラリア軍の勇敢な突撃や堅固な防衛を称賛し、それを世界に報道した。それによりアンザック伝説というものが生まれたのである。
夏になると暑さや蝿や病気、不衛生な環境などに、軍は悩まされることになった。衰弱していたオーストラリア軍は、8月6日から10日にかけてトルコ軍の防衛拠点を撃破する作戦に参加したが、多大な被害を受け失敗した。この間の激戦の模様は「ガリポリ」(1981年)という映画のなかで描かれている。
この戦線における状況をみて、軍司令部の参謀たちは撤退を決意した。オーストラリア軍の撤退が完了したのは12月20日のことである。この撤退は迅速に行われ、死傷者をほとんど出さずにすんだ。このガリポリ作戦によりオーストラリア軍は8,000人以上の死者、18,000人以上もの負傷者を出すことになった。
師井学00