オーストラリア辞典
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Furphy, Joseph

ファーフィー、ジョゼフ


1843-1912
ヤラグレン、ヴィクトリア、オーストラリア。
作家


 ジョゼフ・ファーフィーは1943年にヤラグレン近くのイェリングで生まれる。両親はアイルランド系である。農場経営や運送業、鋳鉄工場での職歴を持つ。代表作『サッチ・イズ・ライフ』Such is Lifeは、リヴェリナでの生活に影響を受けて書かれた小説で、オーストラリア人の習慣や道徳について描写している。小説家としてはトム・コリンズTom Collinsを名乗る。1912年にクラーモントで死亡。

 ジョゼフ・ファーフィーは幼い頃は母親から聖書とシェイクスピアで教育され、1850年にカンガルー・グラウンドに転居した後、短期間学校に通う。1867年にフランス系のレオニー・セリナ・ジャーマンと結婚する。結婚後、コルビナビンで農民として働くが、1872年には農地には不向きと農業をあきらめる。1873年に農地を売却し、輸送用の牛を買い、ニューサウスウェールズのリヴェリナ地区で運送業を始めた。その自然はジョゼフに楽観主義を植えつけた。ヘンリー・ローソンや他の作家のような悲観主義や憂鬱とは無縁であった。ファーフィーはこの頃に文学の才能に目覚めたと母への手紙に書いている。ファーフィーはまじめでボヘミアンではなかった。仲間の運転手が深酒をしているときにも、読書をするほどであった。しかし、ファーフィーは徐々に単なる陽気な楽観主義者ではなくなり、金銭に対する執着という悪徳の告発、禁酒のメッセージをオーストラリア人に対して投げかける。

 1883年の干ばつに際し、運送業をやめ、翌年、シェパートンの兄の鋳鉄工場で働くようになる。そこで、人生の意味やオーストラリア社会の将来について考えるために本格的に読書を始める。1890年代の不況の頃には、人生の目的を伝える作品についての構想を練り上げる。1867年にはキネトン文学会からリンカーン大統領の死に関する詩に対し賞を受けており、もともと作家としての資質はあった。

 友人で教師のケイト・ベーカーの勧めで『サッチ・イズ・ライフ』の執筆に取りかかり、1897年に草稿が完成。ファーフィーはトム・コリンズというペンネームで、リヴェリナでの経験に基づいて、教訓、生きる指針について書いた。『ブレティン』誌編集者のスティーヴンズのアドバイスに従い、草稿のうちの2章を取り出して書き直し、1903年に『ブレティン』誌からシドニーで出版される。道徳的情熱に基づく仕事であると評判は高かったが、内容については深く理解されず、失望を感じた。

 オリジナルから削除された第5章は『リグビーズ・ロマンス』として、第2章は『ブルン・ブルン・アンド・ザ・ブロルガ』として出版される。その後『サッチ・イズ・ライフ』は簡約版や再版など多数出版されている。批評家はオーストラリア文学史において古典に準ずる作品とみなし、ヴァンス・パーマーやアーサー・フィリップス、ジョン・バーネス、ガイ・ハワース、イアン・ターナーなどは高く評価した。

 1912年、クラーモントで家族に見守られ死去。1916年にケイト・ベーカーが『ジョゼフ・ファーフィー詩集』を編集、出版している。 

 真水晃00