オーストラリア辞典
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Fremantle

フリーマントル、フラマントル


西オーストラリア南西海岸部の町、パースの郊外南西18キロに位置する港町。人口は現在約21,000人。
人口:27,934(1947)、20,467(1901)、5,607(1891)、426(1848)。


 スワン・リヴァーSwan Riverの河口に位置する州の主要な海港であり、重要な工業の中心地である。第2次世界大戦後のパースの南方への成長に伴い、現在はパース都市圏の一部である。1987年には世界的なヨット・レース、アメリカズ・カップの開催地となった。

 1829年に西オーストラリアへ最初のヨーロッパ入植者を運んだ3隻の船の1隻、チャレンジャー号のキャプテン・フリーマントルにちなんで、スターリング総督が名づけた。 1829年5月2日に、キャプテン・フリーマントルはイギリスの西オーストラリアの領有を正式に宣言した。白人の入植以前には、ローカルなグループとしてはWajuk、より広域的にはニュンガーの居住地であった。

 1829年8月にタウンが宣言され、測量長官ジョン・ロウにより町はレイアウトされて、最初の街区が売却された。1832年までに町の通りは整備され、植民地の港となった。 1848年に最初のタウン・トラストが設立されるまで、町は政府の管理官により管理された。1830年、『フリーマントル・ジャーナル』が設立された。 また、12面の壁を持つ小さな刑務所、ラウンド・ハウスが1830年から31年にかけ建てられた。これは、おそらく西オーストラリア最古の建造物である。1831年には学校が設立された。1830年代にはパースへ繋がる道路が整備されている。1840年代にはハット総督によりウェズリー派教会の礎石が置かれた。1836年に造船業が始まった。1837年にはフリーマントル捕鯨会社が設立された。 1830年代には、アメリカの捕鯨船により捕獲された鯨の不必要な部分を食料とするため、アボリジナルたちが集まるのが常だった。

 1850年には英本国の囚人を受け入れるための施設が設立された。囚人労働の受け入れによって、労働力不足は解消され、多くの公共建築物の建設や土木工事が推進されることになった。1853年には旧カスタムズ・ハウスが建てられた。1858年には通りが舗装され、1861年から65年にかけて、現在は海洋博物館となっている精神病院が設立された。1866年にはスワン川に架かる最初の橋がこの地で開通した。 1869年にはパースへの電信が開通し、1881年には鉄道が開通した。1871年にタウン・カウンシルが設立され、1883年にはその議長が市長の名を冠した。1887年にはタウン・ホールが完成し、1890年になると、町は西オーストラリアで初めて独自の水道設備を設けた。1865年には港を改良するために、ジョン・ロウの下、港湾委員会が作られ、港の拡張が進んだ。 1890年から1914年にかけ、港と町はゴールドラッシュで賑わった。1895年にはノース・フリーマントルが分離した自治体となり、1897年にはイースト・フリーマントル・カウンシルが設立された。

 1900年には英本国の郵便汽船がアルバニーをさしおいて、この町に寄港するようになった。これによってフリーマントルの植民地最大の港としての優位は確立した。1903年にはハーバー・トラストが設立され、港の整備が図られた。1905年から1906年にかけてはトラムが開通した。第1次世界大戦からの帰還兵のために、ジェネラル・オーストラリア・ホスピタルも設立された。1919年には波止場をめぐり組合労働者と非組合労働者の間で敵対が生じ、騒じょう取締令が読み上げられた。1926年にはスワン川に架かる鉄道橋が崩壊した。1929年にフリーマントルはシティとなった。

 第2次世界大戦中は食料の積込み港であった。1950年代には港は最新の設備が整えられている。1960年には海外の客船向けに新しい乗客用ターミナルが開かれた。町には雰囲気の良いレストランも多く、散策するには最高の観光地である。

 藤川隆男0403