オーストラリア辞典
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Forrest, John

フォレスト、ジョン


1847-1918
バンブリーの近郊、西オーストラリア生まれ。
探検家、政治家、西オーストラリア首相(1890-1901)。


 1847年、西オーストラリアのバンブリー近郊に生まれる。パースにあるヘイル主教の学校で教育を受け、1865年に植民地の測量局に入り、1890年まで在職した。1883年から90年にかけて立法評議会の議員及び行政評議会委員を務めたが、それ以前には、測量局での専門知識を生かし、3回中央オーストラリアと南オーストラリアの探検に携わった。1869年の第1回目にはライカートの遺物を調査した。1870年の探検ではパース=アデレイド間の陸路を踏破した。その後1877年にこのルートに沿って電信線が建設された。また1874年には西オーストラリア中央部を西から東へと探検した。ただこれらの探検の成果は経済的には大きなものではなかった。

 1890年、立法議会の選挙の後に、フォレストは西オーストラリアの初代首相に選ばれた。その後1901年まで首相兼財務大臣として西オーストラリア政治を支配した。この間、ゴールドラッシュと東部植民地の不況は、資本と移民の継続的流入を保証し、政権の安定に大きく寄与した。フォレストはパースに積極的に資本を投入し、パースを中心とする植民地経済の確立に努力した。また労働者の保護法、女性参政権法など進歩的な立法も実現している。西オーストラリアではオーストラリア連邦の結成に対する反対が強かったので、フォレストは連邦運動のリーダーとしての難しい役目も果たさなければならなかった。

 1901年から18年までオーストラリア連邦の下院議員として、フォレストは非労働党系の政府においてさまざまな役職を務めた。防衛大臣、郵政大臣、内務大臣を務め、財務大臣は1918年まで5回務めた。1907年、フォレストはディーキン内閣を辞任した。それは、オーストラリア労働党に信頼を寄せるディーキンに対する反発のゆえであった。1909年、非労働系の諸派が合同して自由党が誕生したが、その指導者にディーキンが選ばれた。1912年にディーキンが退陣した後、フォレストは自由党内の党首争いにおいて、今度はライバルのジョゼフ・クックに敗れた。1917年の国民党内閣でも首相の座を望んだが、彼は今回も多数を集めることができず、財務大臣の地位に甘んじることになった。

 1918年、フォレストはバンブリーのフォレスト卿としてオーストラリア人として初めてイギリス貴族の地位を与えられたが、その直後に亡くなった。

 藤岡真樹0601