オーストラリア辞典
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Forbes, Francis

フォーブズ、フランシス


1784-1841
バーミューダ生まれ。
ニューサウスウェールズの初代最高裁判所長官(1824-1837)。


 フォーブズはバーミューダ諸島でスコットランド系の家に生まれた。1803年に法律を学ぶためにロンドンに留学した。司法長官となるためにバーミューダに一時帰国後、1816年にニューファウンドランドで最高裁判所長官となった。一時本国に滞在した後に、ニューサウスウェールズの最高裁判所の創設に伴い、裁判長に就任するため1824年初頭にシドニーに到着した。植民地の司法権が軍隊から完全に市民の手に移行したのである。フォーブズは植民地省において1823年に、ニューサウスウェールズ立法評議会設立のための法律の起草に積極的に関わったことがあった。彼は新しい裁判システムを統轄したのみならず、新しく生まれた立法評議会と行政評議会のメンバーでもあった。評議会や総督から提出された法律の妥当性を判断し、イギリスの法律と一致しているかどうかを判断する重要な役割を担っていた。

 フォーブズは行政権を総督から議会に移すことに力を注いだ。最も有名な総督との衝突はラルフ・ダーリング(在任期間1825-31)との、出版の自由をめぐるものである。フォーブズが反対したのは、ダーリングがイギリスの法律と矛盾してでも新聞の発行を停止しようとしたことに対してである。ダーリングはフォーブズを辞任させようとしたが失敗した。結局イギリス本国は行政評議会のメンバーからフォーブズを除くことで妥協を図った。フォーブズは陪審員制度の導入にも努力し、それは1824年に部分的にではあるが実現した。

 エマンシピストとイクスクルーシヴズの対立においては、フォーブズはエマンシピストの考え方を支持する傾向があった。もっとも1837年にロンドンで開かれた流刑についてのモールズワース委員会において、少なくとも一時的には流刑を続ける利点を認めた。植民地でのフォーブズは、サミュエル・マーズデンやハンニバル・マッカーサーなどと対立し、またダーリング総督とはたびたび衝突したが、ブリスベン総督やバーク総督には高く評価された。健康上の理由で1834年に辞表を提出したが、植民地を実際に去ることができたのは1836年であった。バークの推薦により1837年ナイトの位を与えられ、年700ポンドの年金を受け取り引退した。その後シドニーに戻り、1841年にニュータウンで死亡した。

 左近幸村0601