Flinders, Matthew
フリンダーズ、マシュー
1774-1814
ドニントン、リンカンシア、イングランド生まれ。
海洋探検家、オーストラリア周航に成功。
1803年から1805年にかけてオーストラリアを周航し、ニューホランドとニューサウスウェールズが1つの大陸の一部であることを証明した。彼の著作は大陸の名称としてオーストラリアという名称が一般化するのに貢献した。また、オーストラリアの海岸線の多くを正確に測量した。
医者の息子として生まれ、ドニントン・グラマーで教育を受けるが、海に対するあこがれを強く抱き、1789年に海軍に入った。1791年、タヒチ島から西インド諸島にパンの木を運ぶ、ブライの第2回の航海が、最初の長い航海の経験であった。帰国後、フランスとの海戦などを経験したのちに、1795年、総督ジョン・ハンターを乗せたリライアンス号でニューサウスウェールズに到着する。到着後は、リライアンス号の船医であったジョージ・バスとともに、トム・サム号でボタニー湾やイラワラ湖などを探検した。1798年から1799年には、バスとともにヴァンディーメンズランドを周航し、これが島であることを確認し、バスの主張していた海峡(バス海峡)の存在を確認した。
1800年イングランドに帰国すると、ニューサウスウェールズとヴァンディーメンズランドに関する書物を出版する一方、新たな探検の航海の支援者を求めた。アン・チャペルと結婚後、1801年7月18日、334トンのインヴェスティゲーター号の指揮官として、海軍の命令によってオーストラリア南岸の探検に出発した。同年12月6日ルーイン岬を確認した。さらに、1802年1月28日にファウラー岬に到着、海岸線の測量を行いながら東進した。3月22日にはカンガルー島を発見。4月8日にはボーダンのフランス探検隊と遭遇、これにちなんで、そこをエンカウンター・ベイと名づけた。そして、5月9日ポートジャクソンに着いた。7月22日現在のクィーンズランド海岸線の測量を続けながら、カーペンタリア湾に至るが、インヴェスティゲーター号が長期の航海には不適であることが明らかになり、その後の測量は断念し、オーストラリアの周航だけに目的を絞ることにした。彼はオーストラリアを反時計回りに1周して、1803年6月9日ポートジャクソンに再び到着した。
1803年、フリンダーズは帰国の途に就いたが、英仏の戦争が再開されていたので、補修のために立ち寄ったフランス領モーリシャスで、長期にわたり拘束されることになる。総督のドウ・ケンは、1806年3月にフランス政府がフリンダーズの解放を命じてもこれに従わず、フリンダーズがイングランドに帰国したのは、1810年6月14日であった。帰国後、フリンダーズは『オーストラリア大陸への航海』を執筆し、1814年7月18日、それは出版された。しかし、彼自身がその翌日死亡している。
フリンダーズは、当時世界で最も優れた航海者の1人であっただけではなく、最も優れた測量官であり、また海洋の研究者でもあった。彼は潮の動きや、気圧計と風の向きの関係、船内の鉄がコンパスに及ぼす影響の研究などを行い、その修正に貢献した。死後、彼の残した書物『オーストラリア大陸への航海』は、大陸がオーストラリアという名称で呼ばれるようになるのに大きな影響力を持ったと言われている。
藤川隆男00