Fitzroy, Charles Augustus
フィッツロイ、チャールズ・オーガスタス
1796-1858
ダービーシア、イングランド生まれ。
第10代ニューサウスウェールズ総督(1846-1855)、初代オーストラリア全植民地総督(1851-1855)。
1796年6月10日、第3代グラーフトン公の次男であったチャールズ・フィッツロイ卿の長男として、イングランドのダービーシアに生まれる。ハーロウで教育を受け、1812年に騎兵隊に入隊し、ワーテルローの戦いに参加した。1820年3月11日にメアリ・レノックスと結婚。彼はこの結婚により、グラーフトン、リッチモンド、ゴードンの3公爵家の利権を確保することになる。1831年から庶民院議員を短期間務めた後、副総督として南インド洋のプリンス・エドワード島(1837-41年)、西インド諸島のリーワード諸島(1841-45年)に赴任。1846年、ジョージ・ギプスの後任としてニューサウスウェールズ総督に就任した。
前任者のギプスと異なり、フィッツロイは立法府と良好な関係を保った。懸案であった牧羊業者との対立も、1847年に植民地省が土地保有期間の延長に賛成したため、著しく緩和された。植民地相のグレイ伯との間で、流刑の再導入や植民地自治体の問題を巡って、意見の対立が起こった。フィッツロイは植民地諸勢力との対立を避けるために、しばしば重要な問題に対する明確な判断を避け、決断の責任を植民地相に任せた。そのため、フィッツロイの植民地での人気は高かったが、グレイによる評価はきわめて低かった。1847年のグレイの構想では、ニューサウスウェールズからポートフィリップ地区を新たにヴィクトリア植民地として分離し、さらにヴィクトリア、ヴァンディーメンズランド、南オーストラリアの各植民地に、ニューサウスウェールズと同様の責任政府を設ける計画であった。この計画にはフィッツロイもおおむね賛成しており、1850年代に実現することになった。また、これらの新たに誕生する植民地共通の問題を解決する役職として、オーストラリア全植民地総督Governor Generalが置かれることになった。
ヴィクトリア植民地の分離が実行された翌年の1851年、フィッツロイはオーストラリア全植民地総督としての職務を開始する。彼は植民地間の問題に対して干渉する権限を持っていたが、植民地間の違いについては主として放任の姿勢をとった。そのため、ニューサウスウェールズとヴィクトリアの関税政策の相違や、各植民地で鉄道軌間が異なる等の結果を招いた。また、フィッツロイの任期は、オーストラリアにおける自治要求運動の末期にあたる。彼は運動の展開に同情的であったものの、より保守的な制度を求める運動を支持した。例えば、上院議員の選挙制には反対であり、終身議員の任命制を支持した。その後、かねてからの総督任期延長の希望が聞き入れられなかったため、1855年に本国へ帰還。1858年に死去するまでロンドンで暮らした。
津田博司0601