オーストラリア辞典
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federal system, federalism 

連邦制



 複数の国家ないし政治体が連合して設立した上位組織との間で、権限を分割・行使する制度。連邦制が国家の制度として定着するのは、アメリカ合衆国憲法(1787年)においてである。しかし連邦制の萌芽は、古代ギリシアの都市国家間による共通組織に遡ることができる。また、聖書の「契約」の概念に連邦主義思想の原点を見出す論者もいる。中世以降の連邦制の先駆的実践としては、神聖ローマ帝国やスイス盟約者団などがある。しかし、これらは連合(主権をもつ既存政体と必要最低限の権限しかもたない共通機関との非対等な関係)の段階にとどまっていた。

 連邦は、連邦とそれを構成する政体の関係が対等である点で連合と異なる。この点で、最初に国家の政治制度として連邦制を採用したのが、アメリカ合衆国憲法である。アメリカの連邦制は、国家の主権の不可分性を前提とするウェストファリア体制に対して、新たな国家像を提示した。アメリカ13植民地が、1783年にイギリスからの独立を達成すると、州の自治の尊重を前提として、国家建設と対外的脅威への対応から、より強固な中央政府の設置が課題となった。そこで、ジェイムズ・マディソンが『ザ・フェデラリスト』第39篇で主張したような、統一国家でも連合でもない、連邦制を導入した国家が考案されたのである。1787年のフィラデルフィア会議においてアメリカ合衆国憲法が起草され、翌年に各州の批准をもって発効した。ここに世界最初の近代的連邦国家が誕生した。この憲法では、州権を擁護する立場から、連邦政府の権限を限定的に規定し、連邦に委任されなかった権限は州に留保されている。この連邦と州の権限分割の点で程度の差はあるものの、アメリカ合衆国以降、連邦制は国家の政治制度の1つとして定着していく。

 では、オーストラリアにおいて連邦制はどのような形態をとっているのだろうか。まずオーストラリア連邦結成の要因としては、19世紀末の不況による統一関税形成の要求、対外的脅威に対する共同防衛の必要性、独自の移民政策(白豪主義)の採用、それに労働組合の組織化などがあげられる。1890年代に入ると、連邦結成の動きが高まり、連邦運動を通じて国民が後押しする形で、連邦憲法草案が最終的に承認、1901年の連邦発足にいたった。

 1890年に始まる植民地間の議論では、アメリカ型とカナダ型のどちらの連邦制を選択するかが争点となった。そこではアメリカ型連邦制が好まれた。アメリカ型は、もっとも効率的であり、変革が最小限に抑えられ、州権に配慮しているとして、評価されたのである。アメリカ型を採用することで、立法部は、州から選出されて各州同数の代表から構成される上院と、人口に比例して選出された代表からなる下院によって構成する二院制議会となった。また、州と連邦の権限分割のあり様(州権の最大限擁護)や州と連邦の権限を調節する連邦最高裁判所が設置された点でもアメリカ型が採用されている。

 しかし、オーストラリアは、同じイギリス帝国の枠内にあるものの、連邦権限が強いカナダ型連邦制を拒否したと同時に、アメリカ型連邦制のすべてを採用したわけではなかった。連邦運動の担い手は、あくまでもイギリス帝国との結合を前提としていたため、下院議員により組織される内閣が責任政府を構成するというイギリス的制度も取り入れることになった。こうして、オーストラリアにおける連邦制は、立憲君主制とアメリカ型連邦制を融合させた独特の形態を持つことになったのである。

 森本慶太0704