オーストラリア辞典
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Eyre, Edward John

エア、エドワード・ジョン


1815-1901
ホイップスネイドWhipsnade、ベドフォードシア、イングランド生まれ。
探検家、植民地総督


 オーストラリア大陸を最初に横断した探検家。また、1865年にジャマイカのモラント湾Morantで起きた黒人暴動を、戒厳令を敷いて鎮圧した植民地総督でもある。

 当初は陸軍への入隊を考えていたが、17歳の時、教区牧師であった父親の勧めで、将校職購入の資金を流用しオーストラリア渡航に充てる。1833年にシドニーに到着。翌34年、モロングロウ平原Molongloに1,260エーカーの土地を購入した。しかし、飼っていた羊が病気になり、そのため1837年に地所を処分してシドニーに戻った。そこでチャールズ・スタートSturtと出会い、彼の援助で同年、ポートフィリップまで畜群を追って行く。翌38年、今度はメルボルンからマリー川に沿ってアデレイドまで畜群を追って行き、同地に土地と住居を構える。

 その後、内陸部の神秘に魅せられ、アデレイドを拠点に数回にわたり探検を行う。1839年には、スペンサー湾の最奥部からフリンダーズ山脈Flinders Rangesを通って、(彼が命名した)トレンズ湖Lake Torrens南端まで踏破し、いったんアデレイドに戻って、さらにポート・リンカンから(彼の名がつけられた)エア半島Eyre Peninsula、(彼が命名した)ゴーラ山脈Gawler Range、トレンズ湖へと進みアデレイドに帰還した。翌40年には、海路西オーストラリアのアルバニーへ行き、そこから畜群を追ってパースまで陸行する。また同年、アデレイドから北に向かう内陸探検隊を指揮し、(彼の名がつけられた)エア湖Lake Eyreに到達するが、これ以上先には進めないと判断し、いったんアデレイドに戻った。翌41年にジョン・バクスターと3人のアボリジナルとともに、今度はグレート・オーストラリアン・バイトthe Great Australian Bightに沿って進路を西にとった。途中ユークラEuclaで、同行のアボリジナル2人がバクスターを殺害し、糧食を持ち逃げする事件が起きたが、残ったアボリジナルのウィリーWylieとともに旅を続け、アルバニーに到達する。

 1841年、南オーストラリアのムーランディMoorundieの常駐治安判事およびアボリジナル副保護官に任命され、以後3年余り、それまで敵対していたアボリジナルと入植者の関係改善に尽力する。1844年末に休暇でイングランドに渡航。翌45年にJournals of Expeditions of Discovery into Central Australia and Overland from Adelaide to King George's Sound in the Years 1840-1を出版する。このなかに、ムーランディでの経験を基にしたAccount of the Manners and Customs of the Aborigines and the State of their Relations with Europeansも収められている。1847年には、40-41年の探検の功労が認められ、英国地理学協会から金メダルを授与された。

 1846年にニュージーランド副総督に任命され、以後20年近くにわたり植民地総督のキャリアを歩んでいく。ウェリントンでは、400ポンドの生活手当の取り消しをきっかけに、次第にグレイ総督と対立していき、1853年にイングランドに帰国する。翌54年にセント・ヴィンセント副総督に、そして1860年にリーワード諸島総督代理に任命される。1861年からジャマイカ総督代理を務め、64年に総督に昇格する。翌年のモラント湾暴動に対して戒厳令を布告して鎮圧にあたり、その際首謀者とみられたジョージ・ウィリアム・ゴードンら608人を殺害・処刑した。事件を調査した王立調査委員会は、総督の指揮が不必要に厳格だったと判断し、1866年に解任・召還される。これをめぐり、本国では、J.S.ミル、トマス・ハクスリー、トマス・ヒューズ、ハーバート・スペンサーらが支援するジャマイカ委員会と、トマス・カーライル、チャールズ・キングズリー、アルフレッド・テニソン、ジョン・ラスキンらのエア弁護委員会との間で論争が繰り広げられる。3度にわたり告訴されるが、いずれの訴えも棄却される。1872年に、イギリス政府により訴訟費用が支払われ、74年にはディズレイリー内閣から退職恩給を受ける。余生は、タヴィストック近くのマナーハウスで隠遁生活を送った。

 宮崎章00