Eureka
ユリーカの反乱、ユーリーカの反乱、ユレカの反乱、ユレカ砦の反乱
Eureka Stockade, Eureka Rebellion,
ユリーカ(ユーリーカ)が原音により近い。
1854年にヴィクトリア植民地バララット近くのユリーカの丘で起こった採掘者と政府の間の武力衝突を、ユリーカの反乱という。
当時、金鉱の運営に政府は採掘許可証を発行するというシステムをとっており、その運営システムの下で、採掘者は1ヵ月に30シリングの支払いを強いられ、常にその許可証を持ち歩かねばならないのみならず、警察による「許可証狩り」に直面しなければならなかった。このような運営システムや、役人の腐敗、政治的な権利の欠如、土地売却の遅れは採掘者の不平を増大した。
1854年10月7日、ジェームズ・スコービーという名の金鉱夫がユリーカホテルのそばで死んでいた。そのホテルの所有者ジェームズ・ベントリーと他3名が、スコービーの殺人の罪で起訴された。10月12日治安判事は彼らを不起訴とし、それが金鉱夫の役人の腐敗に対する疑いを強めた。10月17日金鉱夫たちは大きな抗議集会を開き、ユリーカホテルを焼き払った。その結果、10月21日に3人の金鉱夫が暴動の罪で起訴された。翌11月11日の別の大集会で、金鉱夫たちはバララット改革連盟を結成した。11月23日にベントリーは結局スコービーの殺人の罪で有罪判決を受けた。バララット改革連盟の代表は、暴動の罪で起訴された3人の解放を要求した。ヴィクトリアの副総督のホサムはそれを拒否し、バララットに増援部隊を送った。
11月28日に軍隊はバララット入りし、金鉱夫たちと小競り合いを起こした。翌日の大集会で、現在ユリーカ旗Eureka Flagと呼ばれている南十字星の旗が掲げられた。その旗は青の背景に白の十字が描かれ、その十字の中心と端に合わせて5つの白の南十字星をあしらった星が描かれていた。さらに金鉱夫たちは許可証を焼き払うという決議をした。翌日、政府側は許可証狩りを行った。それに対しアイルランド移民のピーター・レイラーを先頭とする約1,000人の金鉱夫たちは、ユリーカに防御柵を設けて砦を築いた。12月3日早朝、280人の軍人と警察がその砦を攻撃した。その時中にいた約150人の金鉱夫は、瞬く間に圧倒され、100人以上が捕虜になった。軍隊側の5人に対し、金鉱夫側には30人の死者が出た。戒厳令が宣言され、13人の採掘者が反逆罪で起訴された。しかし、1人に対する起訴は取り下げられ、陪審員は、反乱に加わった他の者たちも無罪にした。逃亡した首謀者のレイラーと他の2人に関する有力な情報の提供には懸賞金が懸けられたが、それも後に撤回された。この反乱を機に作られた王立調査委員会は、1854年に金鉱とその問題点を調査することになった。その報告は金鉱夫に寛大であり、政府の政策を批判するものであった。委員会の報告をもとに、従来の採掘許可制が廃止され、年1ポンドの採掘許可権が導入されて、その許可状を保持することで参政権も与えられるようになった。また、金鉱夫が金鉱の運営に参加する道も開かれた。
ユリーカの反乱に関しては様々な解釈がある。保守主義者はユリーカの反乱を、現実にほとんど影響を与えなかった単なる暴動であると見なし、その後の自由主義的改革はすでに始まっていた改革の動きがユリーカの影響とは関係なく実現したものだと主張した。反対の見解は、保守主義的権力に急進的勢力が勝利したものとしてこれを重要視し、ユリーカの反乱は、圧政的・帝国主義的勢力に対する独立を求める民主的な闘争であったとする。後者の解釈は、ユリーカにおける想像上の革命的要素に尾ひれをつけ、後のユリーカ青年同盟のような団体の結成に影響を与えた。その後、ユリーカ旗は共和主義運動の象徴になった。19世紀末の羊毛刈り職人のバーコールダンの大ストライキではこの旗が掲げられた。
見国祐也00