オーストラリア辞典
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Emancipists

エマンシピスト、特赦囚人、刑期満了囚人、改革派、解放囚人



 エマンシピストという語は、時代やコンテクストによって指し示す対象が異なるので、注意する必要がある。オーストラリアではこの言葉はもともと、狭義には恩赦を受けた流刑囚を、広義にはすべての元流刑囚を示す言葉であった。ところが1820年代から1840年代初頭にかけて、法律や政治の改革運動を行った、元流刑囚や自由主義者からなる政治的グループを指して用いられるようになる。このような用語法は、当時本国イギリスで行われていた、奴隷解放、植民地改革、カトリック解放、選挙法改正などを求める改革運動と連動して生まれたと言えるだろう。

 1820年代、エマンシピストは、ウェントワースW. C. Wentworth、イーガーEdward Eager、ウォーデルRobert Wardellら雄弁な指導者のもと、市民権を植民地社会のより広い層へと拡大することを目的として運動を始めた。彼らは法務長官フォーブズの寛大な態度のもと、政府から独立した植民地最初の自由な新聞である『オーストラリアン』紙で、活発な宣言活動を行った。彼らの綱領には、陪審裁判、代表なければ課税なし、元流刑囚であってもその能力に応じた役職に就任できることなどが含まれていた。彼らのこのような立場は、一部入植者の特権的地位を守ろうとする、イクスクルーシヴズと激しく対立するものであった。

 1835年にはオーストラリア愛国協会Australian Patriotic Associationが創設され、彼らの主要な活動の場となった。流刑制度の廃止と、より民主的な立法府の創設は、彼らのこの時点における主要な目標であった。1843年の拡大された選挙権のもとでの新しい立法評議会の創設ののち、最も主要な対抗者であり、様々な問題で対立したエクスクルーシヴズとの方針の違いが明確さを失っていくにつれて、政治的グループとしてのエマンシピストは分解を始めた。

 マクウォリー総督のエマンシピストに寛大な政策に続く、1820年代のビッグ報告書に基づいた解放囚人に対する厳しい政策の時代は、それに不満を持つエマンシピストの活動を促し、エクスクルーシヴズとの対立を激化させたが、流刑の廃止や土地制度の変更は、2つの政治集団の利害を接近させ、両グループを消滅へと向かわせたのである。こうした中で、エマンシピストという言葉は1840年代に徐々に使われなくなった。

 片平建史・藤川隆男0103