オーストラリア辞典
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Education Acts

教育法



 1872年から1895年の間に、オーストラリア各植民地で公立初等学校設立のための法律、教育法が制定された。教育法によって、植民地政府により設立、運営、管理される初等学校体制が整い、新しい国民教育制度ができ上がった。また、これらの教育法は、「無償、義務、世俗」教育を原則にしたもので、とくに世俗教育には力が入れられた。これによって政府の学校と教派の学校の間にはっきりとした線引きがなされた。以降、教派立学校は、政府補助金の停止により勢力を弱めた。プロテスタント系の学校はおおむね初等教育から撤退し、中等教育に力を注ぐことになった。しかし、カトリックの学校は懸命に存続の努力を続け、私学の初等教育の大部分を占めるまでになる。

 教育法成立以前にも、公立初等学校制度を確立する試みはなされていた。1820年代には、政府が学校用地を確保しておく国有地留保計画、1840年代には公教育と宗派教育の2本立ての二重教育制度が成立した。1850年代に入ると、教育に人々の関心が集まるようになる。ゴールドラッシュや自由移民の増加により社会構造や人口の地理的な分布が変化し、それまでの教育では社会に対応できなくなったからである。さらに、宗派立学校の勢力争いが宗派対立を激化させたことも要因に挙げられる。これらを解決する手段として考えられたのが、「無償、義務、世俗」教育を政府が行うことであった。主に教会が担ってきた教育を国が引き受けることによって、国民の間に共通のシチズンシップを生み出そうという考えも背景にある。1850年代、男子普通選挙が普及するようになると、市民としての権利を行使する前提として、すべての市民に一定水準の教育を与えることが不可欠であるとする考えが有力になってきた。

 他の宗派が「無償、義務、世俗」教育への移行を受け入れたのに対し、カトリックはこれをプロテスタントによるカトリック攻撃の一部であると理解し、強く抵抗した(国教会も反対したが、一般の信徒は世俗教育を支持した)。しかしながら、まず南オーストラリアで、1851年に政府による宗派への援助が廃止されたのに続き、他の諸植民地でも1860年代に宗派への援助が停止され、国家と教会の分離による世俗教育確立への地盤が固められた。

 教育法は、1872年はじめにヴィクトリアで成立、続いて75年にはクィーンズランドと南オーストラリア、80年にニューサウスウェールズ、85年にタスマニア、95年に西オーストラリアで成立した。教育法によって、「無償、義務、世俗」の原則が打ち出されたものの、どれもすぐには実現しなかった。世俗教育とはいっても、宗教教育が完全に学校教育から排除されたのではなく、共通のキリスト教教育がカリキュラムに残った。カトリックはこの共通のキリスト教教育が反カトリック的だとみなして、独自の教育システムを維持、拡大しようとしたのである。また少額の授業料も課せられており、欠席も容認されていた。今日のような教育体制が整うには、1920年前後まで待たねばならない。

 山崎雅子・藤川隆男0103