East India Company
イギリス東インド会社
同名の会社は、オランダ、フランス、スウェーデン、デンマークなどでも設立された。イギリス(旧)東インド会社は、トマス・スミスなどのロンドンの貿易商が中心となり、1600年にエリザベス女王の特許状を得て設立され、インド貿易の独占権が与えられた。当初は1回の航海ごとに解散する、個別メンバーの寄せ集め的な組織であった。クロムウェルの改組を経て会社は安定するが、本格的な株式会社形態となるのは王政復古期以降である。名誉革命後の1698年には新東インド会社が設立され、両社は激しく争った。しかし、1709年に双方が合併し、いわゆる合同東インド会社が誕生した。
東インド会社は、当初は純粋な貿易会社であり、香料、茶、キャリコなどを扱う貿易をおこなっていた。しかし、1757年、東インド会社書記クライヴが、プラッシの戦いでフランスとベンガル土侯との連合軍を破って以来、東インド会社はイギリスのインド植民地統治機関としての役割を果たすようになっていく。とくに、1765年にベンガルの地租徴税権(ディワーニー)を獲得してからは、ムガール帝国の弱体化に乗じ、フランスとの抗争を通じて政治的支配者としての性格を強めていった。このような東インド会社の自己膨張に対して、本国政府は、1773年のノース規制法、1784年のピットのインド法を通じて介入を強化し、東インド会社は議会の直接監督下におかれるようになった。その後、1813年にはインド貿易独占権が撤廃され、1833年には中国貿易も自由化されて、会社の貿易活動じたいが停止された。1857年にインド大反乱が勃発すると、翌年、東インド会社はインド統治法によって政治的支配権を本国政府に委譲し、会社組織は解散した。
東インド会社の貿易独占権は、喜望峰から東経180度の範囲で設定されており、オーストラリア海域もその中に含まれた。1787年の総督アーサー・フィリップに対する命令には、東インド会社の排他的な特権区域を侵犯しないようにとの条項がある。もっとも、その当時、領域侵犯によって東インド会社と経済上の利益をめぐるような紛争が発生することは、ほとんどなかった。しかし、19世紀の初期に植民地貿易が拡大を始めると、東インド会社、植民地当局、ロンドンの3者の間で軋轢が生じたため、法律上での争いが延々と続いた。たとえば、1805年にスコットランド人ロバート・キャンベルが起こした事件がある。彼はインドで貿易に携わっていたのであるが、油とオットセイの毛皮の船荷をイングランドに荷揚したことで問題になった。このように、法的には東インド会社に貿易独占権があったが、それにもかかわらず植民地貿易は拡大を続けた。オーストラリアに対する東インド会社の独占権の影響は、1819年にほぼ完全に消滅した。
坂本優一郎00