Eardley-Wilmot, John Eardley
アードリー=ウィルモット、ジョン・アードリー
1783-1847
ロンドン生まれ
庶民院議員(1802-43)、ヴァンディーメンズランド副総督(1843-46)。
1783年2月ロンドンで生まれる。祖父は民事裁判所の裁判長で、父は大法官庁に勤めていた。個人の努力というよりはむしろこのような背景により、1821年に准男爵となった。1806年に弁護士となり、1830年から1843年までウォリックシア地域の四季裁判所の判事をつとめた。1808年に結婚して6男2女をもうけたが、1818年に妻と死別。翌1819年に再婚し、2男2女をもうけている。
ウィルモットはノース・ウォリックシア選出の下院議員を1832年から1843年までつとめ、ヴァンディーメンズランドの副総督に任命された。1843年8月にホバートに着任したとき、植民地の政府は犯罪人の統制に関する保護観察制度と、経済不況への対応に手一杯であった。保護観察は、科学的で効果的な懲罰の新たな基準を要求していた。保護観察制度は植民地の入植者に、犯罪者を安価な労働力として供給するようにはできていなかったので、植民者たちはその制度に反発していた。彼らがもっとも激しく異を唱えたのは、地方の司法・警察の費用を負担することであり、それらの負担は主にイギリスがオーストラリアを犯罪者のごみ捨て場として使うことから生じるのであるから、イギリスが支払うべきであると主張した。このように、本国への反感は非常に高まっていた。
1841年に始まった不況は、入植者の多くを破綻させ、反英感情の火に油を注いでいた。彼らは税金を支払うだけの金がなく、金を持っていても払いたくないと思っていた。植民地の歳入、特に土地売却益は細り、1844年には植民地は事実上の破産状態にあった。
ウィルモットは板挟みになった。植民地政府を運営しなければならなかったが、入植者も、本国政府も、必要な負担を拒否した。公文書では、彼は通常入植者の側にたって、警察と司法の負担は本国政府の責任であると主張した。1844年に彼は、1エーカーにつき1ポンドを土地の最低価格と定めた1842年法を、ヴァンディーメンズランドに関して無効とすることを提案した。これにより元流刑囚が小規模な土地を持ったり、ジェントルマン階級の入植者が広大な土地を無償で手に入れることを可能にしようとした。彼はコットン少佐に灌漑事業を計画させ、本国にそれを実行するよう求めた。ウィルモットは条件付き赦免囚に、ヴァンディーメンズランドだけでなく、全オーストラリアにおける移動の自由を与えるよう助言した。この間、流刑囚管理と軍事上の必要性のためにイギリスが供給していた資金を流用し、当面の財政問題に対処した。
ウィルモットの試みは実を結び、1845年にはイギリス政府が1842年法の効力を停止し、また条件付き赦免の条件を緩和した。さらに重要なことには、1846年に植民地省は財務省に対し、植民地の警察、司法に関する費用の3分の2を負担することを説得した。その間にウィルモットは植民地政府の支出を非常に低く切りつめていた。最終的に彼は任期中に不況からの脱出にめどをつけることができたし、彼もそう主張した。それにもかかわらず、彼は絶望的なほど入植者に不人気であった。
植民地省はウィルモットは無能な統治者であると考えるようになった。新たな職を創ることや、欠勤を許可する際には寛大にすぎ、判断はあまりに恣意的であり、重要な問題を本国に照会する際には配慮が不足し、植民地の事件に関する報告はあまりに大雑把であった。1844年の3月から46年の2月にかけて彼を叱責する内容の文書が27通も出された。特に植民地省は、彼が保護観察制度の状況を報告しないことを非難していたのだが、ウィルモットは流刑囚を管理する責任者であるマシュー・フォースターの報告書に表書きを添付したほかは、ほとんど何もしなかった。
ウィルモットと入植者の大半との関係も悪化した。入植者の窮状に同情しながらも、彼は本国を代表することからくる入植者の憎悪を引き受けなければならなかった。彼への反応は次第に辛辣になっていった。最大の試練は1845年の8月と10月の立法評議会の開会とともにやってきた。一部の議員が保護観察制度とその負担に反対の意見を表明し、最終的に6人の愛国者と呼ばれる議員6人が辞職した。議会は混乱のうちに閉会し、ウィルモットは彼らの行動を「過激で、ジャコバン的」と宣言した上で、この事件を本国に、異常な興奮でもって報告した。
また、植民地に到着して間もなく、彼はヴァンディーメンズランド王立協会を設立した。それは価値ある行為であったが、既存の協会への侮辱でもあった。より重要なのは、宗教的感情から生じた議論であった。彼の任期を通じて、ウィルモットはニクソン主教と、教会と政府の権力関係について、とりわけ流刑囚のところで雇われている司祭の雇傭について対立した。
さらなる問題は、彼が不道徳な行いをしているという噂が、ニューサウスウェールズとイギリス本国にもたらされたことから生じた。これらすべての不和の要因が彼の劇的な罷免へと繋がった。1846年9月、彼は罷免され、10月に届いた植民地相グラッドストンからの手紙により、これ以後植民地で公職に就くことができない旨も知らされた。彼はその後も名誉回復を要求し、そのための証拠を集めるために植民地にとどまったが、まもなく病を得て、原因不明のまま1847年2月3日に死亡した。
石光崇昭・藤川隆男1202