Duffy, Charles Gavan
ダフィー、チャールズ・ギャヴァン
1816-1903
モナガン、アイルランド生まれ。
アイルランドのナショナリスト、政治家、ジャーナリスト、弁護士、ヴィクトリア首相(1871-72)。
商店経営者の父のもとに生まれ、カトリックではあったが長老派の学校で教育を受けた。1832年ダブリンに出てジャーナリストになり、1842年に自ら急進派の雑誌、『ネイション』誌を創刊した。この雑誌でカトリック解放のヒーロー、オコンネルを支持し、2年以内に11,000部の発行部数を誇るようになった。1845年、弁護士となった。アイルランド国民主義運動、ヤング・アイランダーズYoung Irelandersのリーダーの1人として、1848年に反逆罪で逮捕、投獄され、5回の裁判の後釈放された。釈放後、再び『ネイション』誌を復活させ、政治活動を援助した。1852年から58年は、イギリスの下院議員を務めた。しかし、アイルランド独立を掲げた政党を作るのに失敗し、パトロンをも失い、絶望したダフィーは、『ネイション』誌を売り渡し、1856年初め、オーストラリアに移住した。
植民地では急進派の人々に熱狂的に迎えられ、メルボルンで移住当初は弁護士として働いていたが、56年、ヴィクトリアの下院議員に当選した。ダフィーに議員の財産資格を与えるための募金が行われ5,000ポンドが集まった。彼は唯一のイギリス庶民院の経験者として、議会運営に指導的な役割を果たすことになる。以後1856-64年、1867-74年、1876-80年に下院議員を務める。下院議員の財産資格を廃止する法案を準備し、1862年にはセレクターズ(小農民)を助けようとする土地法を制定した。しかし、この土地法は、かえってスクオッターが広大な牧羊地を維持するのを援助する結果に終わった。
リベラル派であったダフィーは、保護主義と連邦制を支持していた。彼は、カトリック誌で、1868年に創刊された『アドヴォケイト』誌の創刊者の1人でもあった。1871年にはヴィクトリアの首相に就任するが、1872年教育法への動きの中で、カトリックなどの宗教問題から政権は短命に終わった。カトリックへの公正な取り扱いを要求するダフィーの立場は、当時の植民地の状況では長期間維持できるものではなかった。1877年には下院議長となり、政治的闘争の場からは身を引いた。
ダフィーの著作はアイルランドの急進的なトーンを残しながらも、オーストラリアに関する点については、次第に保守的なものになる。1873年にはナイトに叙せられ、現実の政治に幻滅するようになった。1880年にオーストラリアを離れ、その後はフランスのニースに住み、主に論文や歴史の執筆にあたった。彼の息子のフランクは、後にオーストラリア連邦裁判所長官となる。
山崎雅子00