オーストラリア辞典
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Dreadnought scare

ドレッドノート恐慌



 イギリスの海上優位に挑むべく、ドイツが建艦計画を進めているとの報告が、早くも1909年初めに現れた。2国標準主義、つまり、イギリスの海軍力は他の強国2国を合わせたものより、つねに優位にあるべきとの考えを基本として、イギリス海軍の計画や配備は、オーストラリア人を含んだイギリス大衆の強い批判にさらされ、ときにはその反応はパニックに近いものになった。1906年にイギリスは、最新式の戦艦「ドレッドノート」を進水させたが、その名前はこの大きさの戦艦に広く適用されることになった。1907年にはドイツも「ナッソウ」を進水させ、これに続いた。1914年に第1次世界大戦が始まったときには、イギリス海軍は19隻のドレッドノート級戦艦を、それに対しドイツ海軍は13隻を就役させていた。

 防衛問題が一般の大きな関心の的になっていたとき、ドレッドノート恐慌のニュースがオーストラリアに届いた。そのため、オーストラリアの独自海軍の建造に関する議論が続き、またその年の後半には、強制軍事訓練が法制化された。この恐慌に対する一般の反応には、2つの方向が認められる。政権を担当していたオーストラリア労働党は、オーストラリア独自の海軍を強化する論拠を提出するものだと考えた。在野の帝国への忠誠派が加わった野党は、ドレッドノート級戦艦を建造し、イギリス海軍の増強に貢献することを要求した。1909年後半にロンドンで開かれた帝国防衛会議において、オーストラリア近海の太平洋艦隊に、オーストラリア海軍を所属させるとの決定が行われると、海軍をめぐるオーストラリアでの論争は鎮静化した。しかしながら、1913年にイギリス海軍が極東に配備していた艦隊の一部をイギリス諸島近海へと引き揚げ、日本にその肩代わりを求めたとき、再び論争が起こった。

 イギリス海軍にドレッドノート級戦艦を贈るために、ニューサウスウェールズで集められた資金の一部は、ドレッドノート計画と呼ばれたものに利用された。この計画のもと、イギリスの若者たちはニューサウスウェールズへと派遣され、シドニー西方のスカイヴィル Scheyvilleに位置する政府農業訓練農場で訓練を経験した。さらに彼らは州を通じ農業地域の仕事に従事することになった。スカイヴィルの農場は、都市の若者たちを訓練する目的で1908年に開設されたが、オーストラリア生まれの若者たちよりも、移民たちの訓練に主に用いられた。この計画は帝国定住計画 Empire Settlement Arrangement の一部として1920年代を通じ実行され、1930年代の不況期に打ち切られるまでに、およそ6,000人の若い移民たちをニューサウスウェールズへ移住させることになった。

 中村武司00