Dixon, Owen
ディクソン、オーウェン
1886-1972
ホーソーン、メルボルン生まれ。
法律家、最高裁判所長官(1952-64)。
1886年4月28日、メルボルンのホーソーンにおいて、弁護士であった父ジョゼフJoseph William Dixonと母イーディスEdith Annieの間に生まれる。ディクソンはホーソーン・カレッジとメルボルン大学で学び、1910年に法曹界へ入った。1920年、アリスAlice Crossland Brookbankと結婚し、4人の子供に恵まれた。1922年に勅撰弁護士に任命され、「傑出した法律家」として頭角をあらわし、1926年にはヴィクトリア州最高裁判所の判事代理に任命されている。1929年、42歳で連邦最高裁判所判事職に就いたとき、ディクソンは最も若い判事であった。1939年に第2次世界大戦の砲火が鳴り響くと、時の首相メンジーズに協力を申し出、中央羊毛委員会(1940-1942)、船舶管理委員会(1941-1942)、連邦海戦損害保険委員会(1941-1942)、海難救助委員会(1942)、連合諮問船舶会議(1942)の議長を歴任、優れた指導力を発揮し、退任後もこれらの団体から助言を請われていた。1942年から1944年にかけてワシントン駐在のオーストラリア代表を命じられたが、外交上の通常任務のほか、太平洋における戦争とオーストラリアの権益に合衆国の関心を留めておくこともディクソンの任務であった。1944年に代表を退くが、その表向きの理由は戦争の終結が近いということであったが、本当の理由は外務大臣エヴァットとの対立であったと言われている。
1950年、ディクソンは国連の代表としてインド・パキスタン間のカシミールをめぐる紛争の仲介役を任されることとなる。ディクソンは紛争解決のために該当地域の分割案を模索するが、国民投票による帰属決定を定めた国連安全保障理事会の決議が障害となった。幾度かの議論の末、カシミール渓谷を含む一定の地域を投票により決め、残りを分割する案を提示するが、インドの拒絶により合意にいたることはなかった。同年10月に連邦最高裁判所に戻る。ディクソンは「その厳格な論理と高度な技術」という法律主義の観点から、判決においてコモン・ローを用いた。彼のその判例尊重主義の最たるものとしては、州際間貿易の無課税を定めた憲法第92条に基づく事例があげられる。また彼は、最終審としての連邦最高裁判所は法を正しく解釈する義務があると考えていた。その法律家としての名声から1952年に最高裁首席判事に任命され、健康上の都合で1964年に引退するまで、ディクソンは連邦最高裁判所の威厳と独立性を擁護し続けた。裁判所のキャンベラへの移設案には頑強に反対したが、そもそもディクソンは最高裁が特定の場に居を構えること自体に否定的であった。彼にとって、最高裁とは「全てのオーストラリア人にとっての裁判所として、人々を呼びつけるのではなく、自ら人々のもとへ出向く」べきものであったからである。
引退後、彼はホーソーンの自宅で静かに余生を過ごした。1972年7月7日、永眠した。皮肉にも彼の肖像画は、キャンベラの連邦最高裁判所に飾られている。
藤井秀明00