Deakin, Alfred
ディーキン、アルフレッド
1856-1919
コリングウッド、メルボルン、オーストラリア生まれ。
連邦首相(1903-04、1905-08、1909-10)、政治家、法廷弁護士、ジャーナリスト。
初期のオーストラリアの首相の中で最も知られた人物である。連邦議会の最初の10年間に3度首相を務め、特に1905年から1908年の2回目の任期中に多くの法律の基本が作られた。オーストラリアに初めて灌漑計画を導入し、「灌漑の父」としても知られている。また、メルボルンの『エイジ』紙に長年寄稿しつづけ、著作は死後出版されている。
アルフレッド・ディーキンは1856年にメルボルンに生まれた。両親はイギリスからの移民。当初、南オーストラリアに入植したが、ゴールドラッシュが始まるとヴィクトリアへ移った。彼の父は結局ゴールドラッシュで財をなすことはなかったが、ディーキンに法律を学ばせるための蓄えだけはしていたようである。ディーキンはメルボルン・グラマーを出てメルボルン大学で法律を学んだ。しかし、卒業後は生計を立てるのに十分な収入のある職につくことができなかった。そんな中、1878年にディーキンは『エイジ』紙の経営者デイヴィド・サイムDavid Symeと出会った。これを契機に、ディーキンの政治観は根本的に転換する。それまで彼は保守的な自由貿易主義者であったが、リベラルな保護貿易主義者となったのである。その後、ディーキンはサイムから『エイジ』紙への寄稿を勧められ、これを1883年まで続けた。また1880年には『エイジ』紙の週刊版である『リーダー』紙Leaderの編集責任者を務めた。1879年にヴィクトリアの立法議会にリベラル派議員として選出された。1度議席を失ったが1880年に再選され、1900年まで議員を務めた。1883年3月に入閣し、1884年には灌漑計画調査委員会の議長を務め、彼が提出した1885年の灌漑法をミルデューラ地区で実施した。彼はまた、公共土木建設事業、福利厚生、外交、禁酒運動、動物保護、そして連邦運動などにも関わった。1886年に彼はリベラル指導者となり、保守派との連立を続けた。1887年にロンドンで開かれた第1回植民地会議ではオーストラリアの要求を強く主張した。オーストラリアの利害の強力な主張者として、彼はオーストラリア出生者協会ANAに多くの友人を得た。
1890年代、ディーキンは連邦化に多くの精力を傾けた。1890年にギリーズGillies内閣の元で議席を失ったことがそれに大きく関係している。それから10年間、平議員として、連邦化の運動に専念することができたからである。彼は国民オーストラレレイジアン憲法制定会議の立役者となり、各種の連邦集会に出席し、ヴィクトリアの連邦連盟の議長を務めた。1900年には、オーストラリア連邦の憲法草案を説明するためにロンドンへ派遣された代表団の一員となった。英国議会では多少紛糾したものの、結局英国議会はおおむねこの草案を認め、1901年1月1日にオーストラリア連邦が成立した。
1901年から1903年まで、保護貿易派のバートン内閣で司法長官を務め、1903年にバートンの跡を継いで首相と外務大臣を務めた。2回目に首相となった1905年から1908年に、ディーキンは労働党の協力のもとで多くの法案を成立させた。彼は新保護主義の名のもと、一連の社会的立法を行った。労働党の協力を失ったとき、内閣も倒れた。1909年から1910年までの第3次ディーキン内閣で、彼は労働党以外の諸グループ、すなわち自由党の保護貿易論者、ジョゼフ・クックの指導下の反社会主義者、ジョン・フォレストのグループを、いわゆる「合同」fusionへと導いた。この党が労働党に大敗した後も、1913年まで新党の党首を務め、引退した。
イギリスの民衆は地球の裏側の出来事をもっと知るべきだと信じて、彼は1901年から1914年まで匿名で、『ロンドン・モーニング・ポスト』紙の特派員として記事を書き続けた。引退した後も、1914年の食料供給および物価の調査委員会の議長や、1915年の博覧会ではオーストラリア代表団の団長を務めた。1916年以降、健康を害し、また記憶も衰え、1919年に家族に見守られて亡くなった。
ここまではディーキンの政治家としての活動を見てきたが、彼にはその信念と振る舞いにおいて、普通人とは異なる属性があった。まず、彼は精神主義者であった。青年期に精神主義に魅せられ、降霊術の会に日常的に参加し、霊的世界との調和を求めた。彼は政治的なアドヴァイスを霊たちから受けていたという。精神主義は彼に非常に合っていたようで、1878年にはその指導者となる。しかし、1900年の選挙戦で彼の精神主義は敵陣営にとって格好の攻撃材料となり、その後、彼は精神主義を否定するようになる。しかし、不思議なもの、未知なる物に対する興味は持ち続けた。また、彼の「奇妙な属性」は行動にも表れた。それは彼がナイトの称号を拒否し続けたことである。ナイトの称号は、オーストラリア建国の立役者としての、また首相としてのディーキンの功績が認められたものであり、1970年代までオーストラリアの政治家にとって憧れであった。ディーキンは、ナイトの称号を拒否することで、労働者の側に立たない政治家とは距離を置き、その独自性を主張したのである。
山口典子・藤岡真樹1101