オーストラリア辞典
Loading

和文索引(た)に戻る  英文索引(D)に戻る


Darwinism and Australia

ダーウィニズムとオーストラリア



 学術調査団の一員として調査船ビーグル号HMS Beagleに乗船したチャールズ・ダーウィンDarwinは、1836年に短期間オーストラリアを訪れた。 1月から 3月にかけて、彼はシドニー(その西側の地域をバサーストまで)、タスマニア、および西オーストラリアのキング・ジョージ・サウンドをまわっている。

 ダーウィンにとってオーストラリアは、様々な社会的グループが相互に厳密な境界を保持しているような、いわば原始の社会の姿の痕跡をとどめている土地であった。もっとも、後に彼が発表することになる進化理論のための、その基礎となるフィールドワークの多くは、このオーストラリア到着時にはすでにその大半が終了しており、おそらくオーストラリア滞在が彼の研究に与えた影響といえば、ほとんどが検証的な側面にかかわるものであったろう。

 1859年に出版された『種の起源』は(その中でダーウィンは、それぞれの種は自然淘汰のプロセスを経て進化してきた、とする仮説を提出し、自然世界の起源についての聖書に基づく伝統的な説明に疑問を投げ掛けた)、イギリスにおける反応とは対照的に、オーストラリアでは比較的穏やかで鈍い反応を示した。ダーウィンの理論、およびそれとオーストラリアにおける宗教とのかかわりは、この国の優先的な関心事ではなかった。一般的に、精神的な生活は世俗性によってその内実を奪い去られており、人々は自分自身のより高い本性と触れ合うことに対する関心を失っていた。最終的には、高等批評Higher Criticismなどに代表される聖書学の進展によって、ダーウィンによって提起された自然世界の起源と発展に関する仮説が宗教方面へもたらしたショックの大部分は、かなり小さなものに限定されることになった。

 オーストラリアにおけるダーウィンの理論の比較的穏やかな受容は、聖書学者たちのキャンペーンによって説明しきれるものではない。他方、オーストラリアという環境がもたらす太古の時代との親近性のおかげで、人々が進化のプロセスの結果と直接に接して暮らしていたことなどによって、ダーウィンの理論への穏やかな反応を説明する見方も十分とは言えない。むしろより真実に近い説明としては、入植地を非宗教的なものにし(たとえばその傾向は教育などの分野において顕著である)、宗教に関するものごとを実生活から切り離す、オーストラリア社会の傾向によるところが大きいように思われる。このような環境にあっては、ダーウィン理論は当初、大きな影響を及ぼすことはできなかった。また、ダーウィン理論に関して意見を述べた教会関係者や科学者たちにしても、論争を挑むという雰囲気はなかった。メルボルンの英国国教会の主教であるチャールズ・ペリーもダーウィンの主張に関して、あくまでその理論としての性格を強調した。科学者たちも新しい理論の登場を歓迎しつつも、他方ではそれを、数多くある自然界に関する理論のうちのひとつとして位置づけた。しかし、時代が下るに連れて、ダーウィン理論は、熱心な世俗主義者たちによって、宗教を否定する科学的手段、として喧伝されるようにすらなった。作家マーカス・クラークMarcus Clarkeはそのような人物のひとりである。

 物質的な進歩・発展ということに関して重きを置くような国にあっては、社会ダーウィニズムが様々なかたちでもてはやされたことはそれほど驚くべきことではない。オーストラリアにおいて社会ダーウィニズムは、アボリジナルの絶滅を正当化する理論として利用された。それは白豪主義の正当化や、保護貿易に対する自由貿易の優越性の主張にも用いられた。また社会ダーウィニズムは、学校や鉄道の整備に政府が大きくかかわることに異を唱える人々によっても、同じように喧伝された。つまり、政府の介入を待たずとも、自然淘汰の理論が正しいとすれば、より良いものはそれ自身の力によって生き残ってゆくし、質の悪いものは自然に姿を消してゆくだろう、という訳である。

 平野孝展00