Darling, Sir Ralph
ダーリング、ラルフ
1772-1858
アイルランド生まれ。
軍人、ニューサウスウェールズ総督(1825-1831)。
ニューサウスウェールズ総督として刑罰制度の強化、行政の整備などを実施したが、植民地ではその強圧的な手法への批判が強かった。
1775年1月、イングランド人の両親クリストファーとアンの3人の子供の長男としてアイルランドで生まれる。父クリストファーは連隊の副官であった。貧しい少年時代を過ごした後、職業軍人の道を選ぶ。1793年、陸軍の旗手に任命される。ナポレオン戦争に従軍し、西インド諸島、スペインなどで活躍し、最後にはロンドンでヨーク公のもとに仕え、少将に昇進した。1823年まで彼は、モーリシャスの守備隊の司令官として赴任し、1818年から19年までと1823年7月の2回、総督代理としての任務についた。イングランドにしばらく居た後彼は、トマス・ブリスベンの後任としてニューサウスウェールズ総督となった。
ダーリングは、総督として多くの重要な改革に従事したが、デューメリック兄弟やアレクサンダー・マクレイなどの近親者に依存する政権は入植者たちの批判を呼ぶことになる。彼は総督としてははじめて、立法評議会と行政評議会の補佐を受けることになり、総督の専制的な性格は多くの対立を生んだ。通貨や銀行制度の改革が行われ、スペイン・ドルが一掃された。ダーリングの任期中に植民地政府の歳入は増税を伴わずに2倍になった。土地利用に関しては、詐欺や不在地主制度を防止するために、本当に植民する意志のあるものにのみ土地の購入を認め、7年間は譲渡を禁止した。ただし、忠誠への代償として多くの土地を無償で譲渡したのでその恣意性に批判が高まった。また、教会と学校制度の確立に努力し、植民地を郡と行政教区に整備しなおした。刑罰制度も強化され、彼の任期中に17,000件もの判決が下された。囚人の割り当て制度の改革も実施したが、その政治的利用はより多くの批判者を生み出した。ダーリングは探検事業にも熱心で、ニューサウスウェールズ西部の河川系の探索や幹線道路の建設などは重要な業績の1つである。ダーリングの成した改革は後の時代の発展の大いなる布石となった。しかし、ダーリングの冷淡な態度や軍人気質、保守的な考え方は彼に対する非難を生み、彼は、多くの優れた業績よりもサッズ=トンプソン事件(盗みを働いた2人の兵士に対し、ダーリングが裁判所の判決を変えてまで厳罰で臨んだ事件)や抑圧的な出版法などに関連して言及されることの方が多い。ダーリングはサッズ=トンプソン事件を批判した新聞を法律によって規制したが、本国に成立したホイッグ政権はこのような立法を批判し、ダーリングの辞任を求めるようになった。
1831年にダーリングは辞任し、イギリスに帰国した。ダーリングはそこで彼を非難・誹謗するキャンペーンに晒されることになった。1835年にはサッズ=トンプソン事件に関して議会の調査委員会にかけられた。証人の調査もほとんど行われることなく、委員会は結論を下した。結局、ダーリングへの批判が根拠のないものとされ、ナイト号が贈られた。その後ダーリングは引退し、イングランド南部のブライトンで妻のエリザベスと2人の息子と共に暮らし、1858年に死亡した。
三木一太朗00