Daintree, Richard
デイントリー、リチャード
1832-1878
イングランド生まれ。
地理学者、写真家
リチャード・デイントリーは1832年12月13日にイングランド東部のハンティンドンシア州のヘミングフォード・アボットで農民であった父リチャードと母エリザベスの間に生まれた。1851年にケンブリッジのクライスト・カレッジに入学するが、健康状態の悪化により、1年後に退学した。1852年にゴールドラッシュにわくオーストラリアのヴィクトリア植民地に向かい、採掘者としては成功を収めなかったものの、1854年に友人の地質学者アルフレッド・セルウィンの助手として1856年までともに働いた。その後、イギリスの王立鉱山研究所で鉱物学を学び、そこで写真術に出会い、興味を抱くようになった。1857年にメルボルンに戻り、アントニー・フォーチェリーとともに「オーストラリア」と名づけられた写真についての研究に協力したと思われる。彼は1859年に測量技師として地質調査団に加入し、そこで写真術をフィールドワークにとりいれて、研究を進めていった。それ以後の5年間に炭層に関する地図作成や調査を行ったり、またW.B.クラークの古生物学に関する論文について、フレデリック・マッコイ教授と論争を繰り広げたりした。
1864年にデイントリーは地質調査団を離れて、ウィリアム・ハンをパートナーに北クィーンズランドのバードキン牧場に移り住んだ。そこで彼は写真術と探鉱に没頭した。1865-67年の間にアインズリーEinasleghにおける金、銅の層の発見や、ボウエンBowen川の石炭層の最初の組織的な調査を行うなどの業績を残した。牧畜ブームが去った後、彼は金採掘地の開発に尽力し、1867年にケイプ・リヴァーCape River、1869年にギルバードGilbert、1869-70年にイーサリッジEtheridgeの開発にそれぞれ力を注いだ。それらの地域の開発は、北クィーンズランドが不況から立ち直るのに重要な役割を果たした。結果的に永続的な鉱物産出地となったのはイーサリッジだけであったが、彼の功績が、北クィーンズランドに採掘者を引き寄せ、その地域の開発を早めることになったのは確かなことである。
デイントリーはクィーンズランド政府による地質調査の実施を提唱し、その甲斐あって1868年から調査がはじまった。彼は北部地域の地質調査を担当した。また同年に写真術に関する優れた研究成果も残した。1871年にロンドンで行われた博覧会に、写真や鉱物標本を出品するため、イギリスに向かった。しかし向かう途中に船が難破し、準備した展示品の多くが失われるという不運に見舞われた。
ロンドンの博覧会において、クィーンズランドの広告塔としての役割を果たしたことにより、デイントリーは地元からは熱狂的な人気を得ることになった。そのため1872年にクィーンズランドのイギリス代表部主任に任命されることとなった。彼は代表部主任として移民への援助を積極的に行い、また地質学に関する講演や写真を用いた本の出版をするなど多忙な日々を送った。しかし彼の代表部の運営は、補助移民の質の低下や行政の役人の不正行為などに対する首相アーサー・マカリスターArthur Macalisterによる批判を招いた。1875年-76年にかけてマカリスターはロンドンへ趣き、デイントリーが不正を行う役人の横行を黙認していると考えて、まず役人たちを解雇した。その問題と健康状態の問題もあって、彼は1876年に代表部主任を辞任した。
その後彼の健康状態は悪化し、養生のために南フランスで2度の冬を過ごした。しかし結核など複数の病気により、1878年6月20日にケントのベッケナムで死去した。
師井学00