Curtin, John Joseph
カーティン、ジョン・ジョゼフ
1885-1945
クレズウィック、ヴィクトリア生まれ
政治家、ジャーナリスト、連邦首相(1941-45)
ジョン・カーティンは、1885年、ヴィクトリアのクレズウィックでアイルランド系の両親のもとに生まれる。父親は、刑務所の看守、警官、ホテルの支配人として働いていた。カーティンは、子供時代をメルボルンで過ごした。公立とカトリックの小学校に通いながら、広い読書を通じて独学で学ぶ学問好きの少年であった。
カーティンは14歳でエイジ紙のコピーボーイとして働き始め、1903年には会社の事務員となり、そこで8年間働いている。1911年に、木材労働者組合Timber Worker’s Unionの書記となり、1916年には、オーストラリア労働組合AWUの設立者の1人になった。カーティンが世間で注目を集めるようになったのは、同じ1916年、ヴィクトリアのAnti-Conscription League(反徴兵同盟)の書記としてであった。
一時的なアルコール依存症(これは後に回復に向かう)を経験した後、1917年、労働者の新聞である『ウェストラリアン・ワーカー』Westralian Workerの編集者としてパースへ移り、1921年にオーストラリアジャーナリスト協会の会長に任命された。
カーティンは若くしてオーストラリア労働党に入っていた。彼は1928年にフリーマントルの議席を獲得し、下院議員となった。労働党が惨敗した1931年の選挙で議席を失うが、1934年に返り咲き、その後、1937年、1940年、1943年と連続して当選している。また、1935年には、スカリンに代わり労働党の党首となり、野党のリーダーとなった。
第2次世界大戦が勃発した1939年、ロバート・メンジーズの連立内閣は内部抗争にあけくれていた。無所属議員が支持を労働党へと移しことで、1941年、ファデンの短命政権に替わって、カーティンは連邦首相となった。
カーティンはしばしば、イギリスからアメリカへとオーストラリアの主要な同盟国を転換した立役者として描かれる。1942年の年頭の演説、「オーストラリアは、イギリスとの伝統的なつながりや親族関係についてのあらゆる良心の呵責から自由になり、アメリカに目を向けることを明らかにする」は、それを最もはっきりと示した言葉として引用されるが、現実の変化はそれほど大きなものではなかった。カーティンのもと、ゆっくりとしたイギリスからの自立のプロセスが、より顕著に見えるようになったのである。カーティンは、1942年にはウェストミンスター憲章を採用し、マッカーサーとの協力を推し進めた。
日本の飛行機が、北部オーストラリアの港を攻撃すると同時に、カーティンは全国民を動員して、第1次世界大戦の際に彼自身が強く反対していた徴兵制を制定した。また所得税法を導入し、所得税を事実上連邦税とした。1944年には失業・疾病手当法を制定した。
戦争での疲弊、ストレスなどにより、戦争終結のわずか1ヵ月前、1945年7月、ジョン・カーティンは在職中に息を引き取った。在職中に亡くなった連邦首相は、カーティンで2人目であった。
宇津洋夢0704