currency lads, currency lasses
植民地生まれの若者、カレンシー・ラッド、カレンシー・ラス
sterlingと呼ばれていたイギリス生まれの移民に対して、currency lads&lassesはオーストラリア生まれのヨーロッパ系の若者を指す言葉である。植民地の通貨currency(英貨と異なる地方流通通貨)の価値が英貨ポンドに対して低い評価しか受けていた時代に、currency ladはオーストラリア生まれの若者を指すようになった。
カレンシー・ラッドという表現はオーストラリア生まれの白人人口が増加しつつあった1820-30年代に頻繁に使われたが、やがて彼らが植民地で優勢となるとあまり使われなくなった。またカレンシー・ラッドという表現は、オーストラリア生まれの人間の方がオーストラリアにおいては移民よりも大きな権利を有するべきだという、移民に対する敵意を含んだ使われ方もした。
初期のカレンシー・ラッドやラスは主に流刑者の子孫であり、これらの人々は農業労働者・警察官・兵士などのいわば従属的なニュアンスをもつ職業を避けていた。日常のレヴェルでは、カレンシー・ラッドやラスという表現は競走馬、歌、船の名前につけられ、カレンシー・ラッドへの乾杯が一時流行した。これに関連する表現はthe Cabbage Tree Hat Mobにみられ、カレンシー・ラッドやラスはヤシの葉で編んだ帽子をかぶって、オーストラリア産の製品を見せびらかした。
またこの言葉は重要な意味も持っていた。週刊のCurrency Ladは1832年から短期間出版されたものであるが、その記事や率直な文体はオーストラリア生まれの人々の心情を強く表現している。この週刊誌では、マクウォリー総督(1810-12)の解放政策はオーストラリア生まれの人々を激励したとして賞賛されている。また移民を優遇してオーストラリア生まれの人々を軽視するようなイギリス至上主義を非難し、さらにすべての市民にイギリス人としての権利を保証するように主張していた。
菅原潤哉00