オーストラリア辞典
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currency

植民地通貨、通貨


オーストラリアに特殊な用法としては、英正貨と異なり、植民地だけに通用した通貨を指す。とりわけマクウォリーのものが有名。


 流刑の植民地には正貨は必要ないと考えられていたため、当初の総督権限には硬貨鋳造権は含まれていなかった。そのため、次第に貨幣の不足は社会問題となった。

 バーター貿易(交換交易)は特に貧困層の間で普及しており、また、入植初期の数十年間は約束手形が決済の標準的な手段であった。植民地建設期に、役人と陸軍将校が交易を独占するようになり、決済手段としての約束手形が確固たるものとなった。植民地ではラム酒も広く交換手段として用いられており、マクウォリー総督時代のシドニー病院建設の資金もラム酒の交易権によって調達された。

 植民地で流通していたコインは様々であった。キング総督が任期の当初(1800-06)に様々な貨幣の価値づけを試みた時、英貨とともにギルダー(オランダ)、ルピー(インド)、スペイン・ドルが流通していた。1813年にマクウォリー総督は、コインの流出を防ぐとともに、コインの種類を主要な2つに減らすことを試み、それによって5シリングのホーリーダラーと1シリング3ペンスのダンプが作成された。これらのコインは10,000ポンド分のスペイン・ドルから作られたものであった。マクウォリー総督はコインの中心をくりぬいてダンプを作り、残りをホーリーダラーとした。1817年に彼は植民地で最初の銀行であるニューサウスウェールズ銀行の設立を許可したが、それは約束手形ではなく通貨を流通させるためであった。

 1820年代の牧畜業と交易の拡大政策は、広く使用できる通貨の必要性を高めた。コイン不足に続いて、1826年には公式の貨幣として英貨の輸送が開始された。これは植民地における通貨の合理化の開始であり、1850年代に金が新たな素材として使用されるまで続けられた。しかしながら、スペイン・ドルと約束手形は次第に減少したものの、まだ使用され続けていた。

 1855年シドニーに王立造幣局が開設され、その10年後にはメルボルンにも造幣局が作られた。1897年にはパースにも、西オーストラリアで金が発見された影響を受けて造幣局が開設された。1910年まで硬貨はイングランドで流通しているものと同じで、シドニーのS、メルボルンのM、パースのP、と各造幣局の印が刻まれていた。また、法律によってオーストラリア紙幣が導入され、コインにオーストラリア連邦と刻まれるようになる1910年までは、民間銀行は個別の紙幣を発行し続けていた。

 連邦の成立後はメルボルンの造幣局が中心的役割を担うようになった。1966年にキャンベラに王立オーストラリア造幣局が10進法通貨制度を導入し管理するために開設されるまで、メルボルンの造幣局はその地位を保ち続けた。

 菅原潤哉00