オーストラリア辞典
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Cultural Cringe

文化卑屈、カルチュラル・クリンジ



 他文化、とりわけ、アングロ・サクソン文化に対して、オーストラリア人が示す、植民地人コンプレックスのような、過度のうやうやしい態度、しりごみ、へつらいといった姿勢・態度をさす言葉。

 この言葉を最初に使ったのは、文芸評論家で教師のA.A.フィリップスPhillipsである。1950年にナショナリスト季刊誌『ミーアンジン』Meanjinに投稿した論文、'Cultural Cringe'(1958年に出版された彼の著書The Australian Traditionに再録)のなかで、彼は、「わが国の著述家―そして、他の芸術家―の頭の上には、アングロ・サクソン文化のなんとも恐ろしい巨体がのしかかっている。そのような状況からほぼ不可避的に生まれてくるのが、オーストラリア人独特の文化卑屈Cultural Cringeである。それは、直接卑屈Cringe Directとして現れるか、あるいは、『オーストラリアは、神の国、俺は、お前より、偉い』と、大言壮語し、ほとほとうんざりさせる自慢家、ペチャクチャ・ベチャクチャBlatant Blatherskiteの態度にみられるような、逆卑屈Cringe Invertedとして現れるかのどちらかである」と述べている。

 たちまち、このフレーズは、オーストラリアの文化ナショナリズムの語彙に加えられ、広く用いられるようになるが、この背景には、第2次世界大戦後、イングランドを「本国」Homeと呼ばなくなった中産階級のイギリス離れがある。このように、オーストラリア人は、ようやく文化卑屈から脱したとみなされる一方で、当時、マスメディアによる文化の「アメリカ化」が、知識人たちの間で議論されており、再び、オーストラリア人の心のなかに、文化卑屈が、頭をもたげてくるのではないかと危惧する声もあった。

 文化卑屈をテーマに、オーストラリア文化史を再構築したのが、フィリップスの友人だった歴史家ジェフリー・サールGeoffrey SerleのFrom Deserts the Prophets Come (1973年)である。

 1980年代になると、文化ナショナリズムよりも過激な文化排外主義が台頭してくるが、83年に、フィリップスは、今や、文化卑屈という言葉が、「独善的で狭量な、田舎根性丸出しの反啓蒙主義者が、彼らよりは寛大なお偉方にぶち込む手ごろなミサイル」になっていると述べ、こう結んでいる。「死臭が鼻につく前に、きちんと埋葬してやろうじゃないか」。しかし、今日でも、この侮蔑の言葉は、永久の眠りにつくことができずにいる。

 宮崎章01