オーストラリア辞典
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Cook, James

クック、ジェームズ


1728-1779
マートン、ヨークシア、イギリス生まれ。
探検家。


 1728年10月27日、ヨークシアのマートンで、スコットランド出身の農場労働者の子として生まれる。17歳の時に雑貨屋へ年季奉公にでたが、18ヵ月後にはホイットビーWhitbyで石炭輸送業を営んでいるジョン・ウォーカーJohn Walkerのもとに移った。ここでクックは数学と航海術を学び、ウォーカーが船の指揮を任せようとするまでに成長する。1755年、クックは海軍に入隊し、すぐにマスターズ・メイトとなった。イギリス海峡で2年間の軍役に就き、1758年にはルイスバーグ要塞攻略作戦に参加している。その後ノーサンバーランド号に乗船して、ノヴァスコシア沿岸(カナダ南東部)やニューファンドランド沿岸の調査を行った。1762年末にイギリスへ帰国し、エリザベス・バットと結婚している。1763年から1767年にかけてニューファンドランドの測量に従事し、1764年にはグレンヴィル号の指揮官に任命された。

 当時、王立協会は金星の太陽面通過を観察するために、調査隊を南太平洋へ派遣する計画を立てていた。協会側はアレクサンダー・ダルリンプルAlexander Dalrympleを推していたが、船を提供する海軍本部は司令官としてクックを選んだ。クックは将校へ昇格し、368トン、全長30メートル、幅9メートルのエンデヴァー号の艦長に就任した。1768年8月26日、植物学者ジョゼフ・バンクスを含む94名の船員とともにプリマスを出航。1769年4月13日、ホーン岬経由でタヒチに到達し、当初の予定通り6月3日に観察を行った。この航海でクックは、地理学者によって南方にあると考えられていた大陸の存在を見極める訓令も秘密裏に受けていた。クックは8月に入るとニュージーランドへ向かい、測量をして海岸線を明らかにし、正式にニュージーランドの領有を宣言した。その後船はニュー・ホランド(オーストラリア大陸)東岸へ向け西進し、1770年4月19日午後6時、ついに大陸を視認した。続いて大陸の東岸沿いに北進し、4月29日にスティングレイ湾に上陸。そこではバンクス率いる博物学者が多種多様な標本を採取し、そのため湾の名はボタニー湾と改称された。さらに船団は北進し、珊瑚礁に座礁する不運に見舞われながらも、大陸の北東端に達してヨーク岬と命名し、8月22日にポゼッション島に到達した。クックは英国国旗を掲揚し、東岸全体の領有を宣言した。後にクックは、航海日誌において同地域を、ニューサウスウェールズと名づけている。ニューギニアとニュー・ホランドが地続きでないことを確認したクックは西へ進路を取り、10月11日にバタヴィアへ到達。修理と再装備の遅れで出航は11月26日に延期され、イギリスへの帰国は1771年7月13日になった。

 クックの航海は大成功であると認められ、彼の報告に海軍本部は満足した。しかしクックは、今1度の南方大陸探索を願い出た。また当時のヨーロッパ各国、特にフランスも南方大陸探索に乗り出しており、海軍本部はフランスに先んじて南方大陸を発見せんと焦りを感じていた。1772年6月25日付の訓令で、クックをレゾリューション号指揮官に任じ、アドヴェンチャー号を指揮するトバイアス・ファーノウTobias Furneaux艦長とともに、第2回航海を命じた。この航海でクックは南緯71度10分まで南下したが、またも南方大陸は発見できなかった。今回の探検でクックはニューカレドニアとノーフォーク島を発見し、またクロノメーターを利用して太平洋の正確な海図を制作した。

 1776年から1779年にかけての第3回目の航海では、クックはディスカヴァリー号のチャールズ・クラークCharles Clerkeとともに、北アメリカを回る北方航路発見のために出航した。クックは北米の太平洋岸やシベリアを探索し、ベーリング海峡を渡ったものの、流氷のため航路を発見することはできなかった。1778年11月、船団はサンドイッチ島(現ハワイ島)に上陸し、一行はハワイの住民から歓待を受けた。特にクックはロノ神の化身と考えられていたようである。船の修理と補給を済ませ、彼らは惜しまれつつもハワイから出港するが、船の事故のため再び戻らざるを得なくなった。しかし何故かハワイの住民の態度は冷淡なものに変わっていた。関係修復を試みるもトラブルが起き、1779年2月14日、クックは先住民の放った矢で命を落とした。指揮官のいない船団が帰国したのは、翌1780年になってからである。

 クックの航海以前、太平洋はその多くが未知の領域であった。正確な海図、島に住む先住民や動植物の情報など、クックがもたらした報告は西欧人の太平洋に関する知識を大いに高めた。しかし一方で西欧人に進出の機会を与え、火器の導入や伝染病の蔓延などによって、太平洋の島々が大きな社会変容に見舞われたことも事実である。(クック著、増田義郎訳『太平洋探検 上・下』岩波書店、1992-1994を参照。)

 藤井秀明0701