オーストラリア辞典
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convicts

囚人、流刑囚



 囚人を北アメリカの植民地へ送るというイギリスの慣習は、18世紀の初期以来実施されてきたが、1776年のアメリカ独立戦争の結果終わりを迎えた。ニューサウスウェールズがその時、イギリスの囚人のはけ口としてアメリカにとって代わった。第1船団の囚人がニューサウスウェールズに着いた1788年と、オーストラリアへの囚人の輸送が廃止された1868年との間に、およそ16万人の囚人が到着した。その多くはオーストラリアに留まった。

 囚人たちの植民地での体験は一様では無かった。ニューサウスウェールズは輸送されてきた者たちのおよそ半分を受け入れた。タスマニアがおよそ42%でこれに続く。西オーストラリアが6%でヴィクトリアが2%であった。囚人は1859年までに、ニューサウスウェールズの一部としてのクィーンズランドへも送られた。南オーストラリアだけが囚人を受け入れなかった唯一の植民地である。男性の囚人が多く、女性は全体の15%であった。ニューサウスウェールズに辿り着いた者の大部分は、1815-40年の間の期間に到着した。タスマニアに送られた69,000人の総計のうち半分以上は、1841年と東部植民地への輸送が終わった1853年の間に上陸していた。西オーストラリアに到着した10,000人程の流刑囚は、1850年から1868年までのシステムの最後の期間に到着した。

 イングランドは最も多くの流刑囚を供給した。アイルランドがそれに次いだ。イングランドとアイルランドの人口がほぼ同じだった頃に、全囚人のおよそ30%がアイルランド人であった。政治的な囚人は少なく、およそ1,000人であった。最も一般的な犯罪は窃盗であった。初期はロンドンとその周辺、しかし後にはランカシアやアイルランドのダブリンような他の人口密集地域が、男性でも女性でも、囚人の出身地となる傾向が強かった。

 最も一般的な刑期は7年間であった。刑期を務める方法は一様では無かった。囚人を公共事業に使役する慣習は、流刑の大半の時期にわたって続き、政府の農場や道路の建設にまで広がった。それは度々服役中の囚人にとって過酷な労働であった。そしてマクウォリー総督(1810-21)の下では、多くの公共建築物にまで囚人の使役が広がった。刑期の終了以前に、自分のために働くことができるようになる刑執行猶予状が認められた一方、入植者の農場での労役に割り当てられる者もいた。

 数が増加し、囚人の分離が必要となった時、他の入植地がシドニーから離れて設立された。これは1つの地域に、大勢の囚人を抱えるという危険を避けるためであり、そして冷酷な常習犯と一般の囚人とを区別するためであった。ニューサウスウェールズのニューカッスル、ポート・マクウォリー、モートン・ベイ(ブリスベン)は厳しい罰則用の地として入植され、ノーフォーク島やタスマニアはより厳しい扱いを必要とする囚人を受け入れた。そのような中で、ノーフォーク島のキャプテン・アレクサンダー・マコノキーAlexander Maconochieの計画は処罰よりも矯正を重視する唯一の試みであった。1840年に始まり、無監督制度に基づいていたが、数年後経費面の理由で植民地省は援助を取り下げ、一時的なものに終わった。

 囚人制度に関する2つの政府の調査は異なった結論に達した。最初の方はJ.T.ビッグが中心となり、1819年に始まった。当時マクウォリー総督は囚人により寛大で積極的な政策を行っていた。彼の政策は仮赦免状の容易な発行、仮赦免囚人や刑期を終えた者への労働賞与を通じた激励、公共施設建設の大規模な建設を含んでいた。後者の実施は、囚人労働を渇望する自由移民により反対された。ビッグの報告の結果、囚人生活における罰則の要素が再確認された。

 ビッグの任務が、オーストラリアへの流刑制度が継続するという前提で行われたのに対し、1837-38年のイギリスのモールズワース委員会による、囚人制度への第2の調査報告は、欠陥に満ち非道徳的な流刑制度の廃止を勧告した。オーストラリアへの流刑の停止は、オーストラリアとイギリスにおける要因の結合を通じて起こったが、完全に自由な社会を創ろうというオーストラリアの決意は重要な要因であった。1840年にニューサウスウェールズへの流刑が一端停止すると、他の地域でその廃止が促進された。東部植民地からの強い圧力は、1850年代のタスマニアにおいて流刑制度を廃止するのに重要な役割を果たした。西オーストラリアにおいては、その決定はイギリスによりなされた。

 見国祐也00