Coniston Massacre
コニストンの虐殺
アリススプリングズの北西約255キロに位置するコニストン牧場で起こった、オーストラリアにおける最後のアボリジナルの虐殺である。
1928年、ワルビリのひとびとがその年の深刻な干ばつのため、コニストン牧場近くに移動してきた。8月7日、おそらく、ひとりのアボリジナルの女性が誘拐されたことに端を発して、白人のディンゴウ猟師であったフレッド・ブルックスFred Brooks が彼らによって殺害された。セントラル・オーストラリアの政府の管理官であったC.A.ケイウッドCawoodは、警察の捜索隊を派遣した。捜索隊は騎馬警官ウイリアム・マリーWilliam Murrayに率いられ、首謀者の発見に向かった。彼らは、途中、多数のアボリジナルを虐殺し、さらに2人を捕らえて帰った。この2人はダーウィンの裁判では無罪を宣告されている。
8月28日、ナゲット・ノートンという牧童がアボリジナルに襲われ、命からがら逃げのびた。これも前回同様アボリジナルの女性の誘拐に対する報復を目的としていたようである。9月4日、ふたたび警察の捜索隊が、やはりマリーに率いられて送り込まれた。この2回にわたる遠征で、公式発表では、31人が死亡したとあるが、実際には70人から100人のアボリジナルが殺害されたと思われる。この後アボリジナルの人々は、彼らの土地を離れた。コニストン虐殺に対する国民的非難がオーストラリア全土に広がり、時のブルース=ペイジ政府は調査委員会の発足を余儀なくされた。しかし、その委員会のメンバーには、ケイウッドまで含まれており、警察の行動は妥当であったという結論を1929年1月に出している。コニストン虐殺以後、アボリジナルに対する懲罰的な騎馬警官による出動は影を潜めた。
安井倫子00