Compulsory Arbitration and Conciliation
強制調停仲裁裁判制度、強制仲裁裁判制度、労使仲裁裁判制度、労働仲裁裁判制度
イギリスでも前例が散見されるが、近代においてはオーストラリアとニュージーランドだけで、体系的に採用された労働争議の解決方法で、労使間の団体交渉よりも、政府組織の介入による強制的な調停、仲裁により行われるものである。
オーストラリアで実際に行われたのは1870年代まで遡る。1890年代の不況、ストライキが続く中、ストライキで敗北した労働側が強制仲裁による解決に傾くようになり、1896年には賃金評議会Wages Boardsが設置された。世紀転換期には西オーストラリア(1900年)、ニューサウスウェールズ(1901年)で強制調停のための制度が法令化され、このシステムは1912年までには他の州でも採用された。1904年には連邦強制調停仲裁法が制定され、それにともないヴィクトリアに連邦仲裁裁判所が設置された。仲裁・調停の方法は州ごとに異なるが、その本質は同じである。労働組合、雇用者が、組織ごとに裁判所に登録され、登録された組織だけが仲裁裁判の当事者となる。連邦仲裁裁判所は労働争議の調停と仲裁、賃金も含んだ裁定の決定を行う。そして労使間の調停が同意に達しない場合は、仲裁者である裁判所の決定が強制された。
この制度による最も有名な判決は、1907年のヒギンズ判事による最低賃金の取り決め、のちに基本賃金と呼ばれたものに関する判決である。法廷では賃金を固定することが主な関心事になるが、この判決が原型となっている。賃金は産業界の支払い能力から何らかの形で独立している権利であるとする、ヒギンズ判決の背景にある主張は、賃金決定を法廷の権限とするのに役立った。この制度は1920年代までに、オーストラリアの労使関係には欠かせないものとなり、政府が介入しようとした場合には、しばしば政府にとって不幸な結果を招いた。1920年代における産業界の不安定さの多くは、1920年にヒューズ首相が裁判権の一部を政府機関へ移行しようとした結果生じた。1929年にブルース=ペイジ政府は、連邦強制仲裁を廃止しようとしたが、それが原因となって政権を失った。基本賃金に対するヒギンズの判決の背景にあったものも、1930年代の世界恐慌の頃には変化した。産業界の支払い能力は裁定額の基準となり、それは1980年代まで続いた。
第2次世界大戦後、強制仲裁のシステムに2つの大きな変化が起こった。1つは1947年に、裁判所の日々の仕事の大部分が、チフリー労働党政府により増員された調停仲裁コミッショナーの手に渡ったことである。ただし、基本賃金や時間労働などは裁判所の権限とされた。もう1つの変化はより徹底的なものであった。それは、強制仲裁の司法機関としての連邦産業裁判所設置の決定であった。また、調停仲裁委員会が調停機能を果たすようになった。この変化によって、最高裁判所は労働争議に関与せずにすむようになった。
1966年には、基本賃金を総合賃金に置き換える決定がなされた。これは職能給も賃金決定のシステム組み込むためのものであった。他の重要な変化は、1970年代に全国賃金の決定に裁判所の重点が置かれたこと、そして、1970年以降、6%という高い比率での賃金上昇が裁定されたことである。賃金決定のプロセスから排除されながら、経済運営に責任のあった政府は、1970年代強制仲裁システムの決定に対し影響を与えるために、圧力をかける傾向があった。
経済の規制緩和にともない、仲裁制度への反対も強まった。ホーク政権は調停仲裁委員会に替えて、産業関係委員会Industrial Relations Commissionを設置した。さらにハワード政権は、個人による契約の自由を強調し、仲裁制度の解体を進めようとしている。
藤川隆男01