Commonwealth Games
コモンウェルス・ゲイムズ(英連邦競技大会)
イギリス連邦諸国が参加して行われるスポーツの祭典。
オーストラリアでは、大英帝国あるいは連邦レベルのスポーツ大会の開催に対する根強い支持があった。この主張は、アデレイド生まれのジョン・アストリー・クーパーJohn Astley Cooperによって最初に提案された。1891年、産業、文化などにおける帝国の進歩を示すため、汎ブリタニカの祭典に賛成する記事を新聞に載せたのだ。シドニーのスポーツ記者、リチャード・クームズRichard Coombesもこの考えに賛同し、以降同様の活動をしていく。
1892から1893年は、帝国に対する関心が高まった時期でもあった。しかし、帝国競技会に関する関心が高まる一方で、実際にイベントを行う動きが見えなかったことが帝国競技大会への関心を衰えさせていった。他方、1894年には、クーベルタンによるオリンピック再開の努力が世界中の関心を引いていた。しかし、新王が帝国の祭典を熱望したのをきっかけに、1911年、スポーツが戴冠式関連行事の一部として取り入れられ、帝国諸国による競技会が実現することになった。
本格的に英帝国の競技会が始まるのは1930年を待たなければならない。1920年代、英帝国諸国の政治的な結びつきが弱まる中で、逆にスポーツの交流は盛んになっていく。1920年代後半カナダのオンタリオ州のハミルトンが主催地として名乗りをあげ、大会委員長ボビー・ロビンソンが中心となり、ハミルトン市の財政援助を受けて、11カ国が参加する英帝国競技大会the British Empire Gamesが開催された。
20世はじめのイギリス英国にとって、スポーツは、単にシンボリックなものであるだけでなく、連邦のつながりを維持するのに重要な役割を果たした。また、それ以降も、イギリスの女王をコモンウェルスの頂点だと認める共通点以外の、数少ない共通認識のひとつを形作った。
20世紀のイギリス帝国の変遷は、この競技会の名前にも反映されている。1954年まではブリティッシュ・エンパイアー・ゲイムズ、1970年まではブリティッシュ・エンパイアー・アンド・コモンウェルス・ゲイムズ、1978年まではブリティッシュ・コモンウェルス・ゲイムズと呼ばれ、それ以降現在の名称が採用された。
オーストラリアは、1938年シドニー、1962年パース、1982年ブリスベンの計3回、コモンウェルス・ゲイムズのホストを務めた。1982年のブリスベン大会ではアボリジナルがアフリカ諸国に競技会のボイコットを促し、クィーンズランドの人種主義への抗議行動がなされた。また、1994年にカナダのヴィクトリアで開かれた大会では、陸上で優勝したアボリジナルの女性キャシー・フリーマンが、アボリジナルの旗とオーストラリアの国旗を持って場内を1周するなど、さまざまな意思表明の場ともなっている。1998年にはマレーシアのクアラルンプールで開催され、2002年にはマンチェスターが開催地となった。
山崎雅子00