Colonial Conferences, Imperial Conferences
植民地会議、帝国会議
イギリスおよび自治植民地の政府代表が帝国の諸問題を討議した一連の会議。1887年から1937年の間に都合15回開かれる(1887, 1897, 1902, 1907, 1909, 1911, 1916, 1917, 1918, 1921, 1923, 1926, 1930, 1932, 1937)。
1887年のヴィクトリア女王即位50周年記念式典に参列した植民地代表団が、ソールズベリ首相と会合したのがはじまり。この時、ヴィクトリア植民地からアルフレッド・ディーキンが出席している。1897年の即位60周年記念式典の際には代表団とジョゼフ・チェンバレン植民地相とが会合し、より定期的に会議を開催することで合意する。1932年のオタワ帝国経済会議を除いて、すべてロンドンで開かれた。1902年会議から、連邦首相がオーストラリア代表団を率いた(唯一の例外は1932年会議)。1907年会議から、名称が「植民地」から「帝国」に変わり、自治植民地はドミニオンと呼ばれるようになる。討議された問題は多岐にわたるが、なかでも防衛、外交、通商問題が大半を占めた。
1909年と11年会議では、ドイツの脅威という当時の状況を反映して、関心が帝国防衛に集中する。1916年会議は、本国政府の戦争遂行に不満を抱いていたドミニオンが発言権を求めたために開かれたもので、17年と18年の帝国戦争会議に先鞭をつけた。1920年代には、本国からドミニオンへの移民・投資、および本国でのドミニオン産品のマーケティングが、会議の主要な関心事となった。同時に、本国とドミニオンの法制的関係が明確にされ、1926年会議で採択されたバルフォア宣言は、ドミニオンを本国と対等の地位にある自治コミュニティと認めた。この宣言をもとに1931年にウェストミンスター憲章が制定され、英連邦British Commonwealth of Nationsが成立する(オーストラリアによる憲章採択は1942年)。世界恐慌を背景に1932年に開かれたオタワ会議では、特恵関税による帝国内貿易の拡大が図られた。最後の会議は戦争が差し迫る1937年に開催され、再び帝国防衛の問題がクローズアップされた。
1949年に英連邦がコモンウェルスCommonwealth of Nationsに改称されるとともに、帝国会議はコモンウェルス会議 (後にコモンウェルス首脳会議CHOGM)と呼ばれるようになり、1969年からは2年毎に開催されている。
宮崎章00