Collins, David
コリンズ、デイヴィド(デヴィド)
1756-1810
キングス・カウンティ、アイルランド生まれ。
ニューサウスウェールズ法務長官代理、ヴァンディーメンズランド副総督(1804-1810)。
オーストラリア流刑の第1船団に同行し、植民地の法務長官代理を務め、初期植民地の運営に深く関与した。その後、イングランドに戻った後、ヴァンディーメンズランドへの植民を行い、1804年から1810年に急死するまで、この地の副総督を務めた。かれの著した書物は貴重な史料となっている。
コリンズは、海軍士官を父として生まれ、おそらくエグゼター・グラマーでジョン・マーシャルのもとで教育を受けた後に、14歳で海軍に入り、1771年には少尉に昇進した。アメリカ独立戦争が始まるとこれに従軍し、バンカー・ヒルの戦いにも参加している。中尉に昇進後、1777年カナダのハリファックスに駐留中、マリア・プロクターと結婚した。ただし、妻は1度も植民地を訪れたことはない。1779年大尉に昇進するが、アメリカ独立戦争の終結で、1783年には予備役になった。
ボタニー湾への遠征が決まると、コリンズは遠征に参加することを承諾し、植民地の法務長官代理を務めることも引き受けた。第1船団で植民地に到着すると、総督フィリップのもとで植民地法制度全般の責任者になった。令状の発布や手数料の徴収、法廷の主催などをおこなった。アメリカ独立戦争中に得たわずかな法知識しか持ち合わせていなかったが、民事事件がほとんどない植民地では、それで十分であった。ただし、刑事法廷をめぐっては、コリンズは総督と海兵隊長ロバート・ロスとの対立に巻き込まれた。彼は総督に同情的であり、ロスのノーフォーク島への移動を喜んだ。彼はまた総督の秘書官の地位も兼ねており、植民地の祝典の準備や、食料の配給、周辺地域の探検にも参加した。先住民アボリジナルに対しては好意的で、人種の対立では囚人たちを批判した。彼の所属する海兵隊の帰国後も、総督のフィリップ、それに続く植民地統治者に高く評価され、1796年まで植民地に留まった。
1797年帰国後は、期待したような昇進もなく予備役に戻り、『ニューサウスウェールズにおけるイギリス植民地に関する報告』の第1巻を1798年に、1802年には第2巻を出版した。同年バス海峡の入植の責任者に選ばれ、翌年新植民地の副総督に任命された。1803年9月ポートフィリップ湾にある、現在のソレント付近に上陸、植民地の建設を始めるが、植民には不向きだと判断し、ヴァンディーメンズランドのダーウェント川へと移動した。
コリンズは、1804年2月16日、すでに入植が行われていたリズドン・コウヴに上陸したが、これに満足せず、対岸をサリヴァン・コウヴと名づけ(後のホバート)、入植することにした。コリンズは食糧不足を解決するために、カンガルーなどの狩猟を振興したが、これは逃亡者の増加やアボリジナルとの対立を招いた。かれは、新たな植民地の建設に苦労しただけでなく、ロンドンから送られるすべての命令が、シドニーを中継するという不便を甘受しなければならなかった。また、重罪判の裁判はヴァンディーメンズランドでは行えなかったので、シドニーへ犯罪者を送らなければならず、1808年のノーフォーク島からの550人にのぼる囚人や入植者の移送についても、前もって相談を受けることはなかった。コリンズは、これらの入植者の定着に努める一方、捕鯨の振興にも努めた。 1809年3月ラム酒の反乱で追放されたブライがシドニーに到着すると、困難はさらに倍増した。コリンズは、ブライに総督官邸を譲ったが、行政に介入しないとの約束にもかかわらず、ブライはこれに介入し、しかも、ブライが本国に直接帰国するとの約束をしていたことが明白になると、両者は対立した。ブライは、1810年の1月までホバートに入る船から不当に料金を徴収した。この後、1810年3月24日コリンズは急死し、ホバートに埋葬された。
藤川隆男00