Closer Settlement
稠密入植
1880年代から1920年代にかけて、オーストラリアでおこなわれた土地政策。農場をもつ小規模な入植者を特定の地域に創り出すことを、主要な目的としていた。
植民地議会は1880年代半ばより、土地利用についての規制を、土地売却法Selection Act のもとで1860年代からおこなわれていたものより、さらに厳重におこなう方向に動いた。こうした新しい規制がおこなわれたのは、土地売却法のもとでは穀物生産の十分な拡大や自作農の創設が全般的に失敗したためである。農業を特定の地域(例えば、クィーンズランドのダーリング・ダウンズDarling DownsやヴィクトリアのギップスランドGippslandなど)で確実に発展させることこそが、新規制のおもな目的であった。政府が大牧場から強制的に土地を接収し、小規模な入植者に再分配した。このような政策が導入された要因として、土地売却法が失敗したこと以外に、植民地議会が新たな土地政策の必要性を強く認識したこともあった。また、農業技術が向上したことや、1870年代後半からの冷凍法の発達によって、農業経営者が海外市場へ参入する機会を得たこと、アメリカの経済学者ヘンリー・ジョージHenry Georgeが主張した、土地に課せられる単一の税についての理論により、土地政策があらたに焦点になったことも、その要因に含まれる。
ニューサウスウェールズや、クィーンズランド、およびヴィクトリアでは、1884年に法律が制定され、農業・牧畜地帯が創り出された。稠密入植はその後、オーストラリアのすべての植民地に広がり、20世紀に入ってもしばらくの間、そのために法律が制定された。第1次大戦前後では、法律の制定と同時に移民の導入も計画され、融資計画、奨励金、輸送費負担といった形で勧誘がおこなわれ、あらかじめ決められた土地への植民が奨励された。稠密入植は、1880年代から1920年代にかけての鉄道の成長による輸送力の増強を背景としており、さらに、鉄道拡大の促進要因ともなった。
植民地政府は通常、まず入植する地域を定める法を制定した後、土地を大牧場から強制的に接収して、その土地を経済力にとぼしい入植者に売却した。顧問委員会は、分配される土地を分類し、その使用状況を監視するために活動した。大規模土地所有者がその所有地を分割することを促進する手段として、地租が導入された。1884年、南オーストラリアで最初に地租が導入され、1895年にニューサウスウェールズが続いた。1915年にクィーンズランドが議会で法案を採択するまでに、すべての州が税を導入していた。1910年から1953年まで、連邦政府も同様な税を導入していた。そのほか、植民地政府は公有地も解放して、土地分配に供した。
稠密入植には特定の目的をになっているものもあった。その第1は集団入植Group Settlementであり、入植者の集団が特定の事業に従事した。土地に対する不慣れへの解決策としておこなわれることもあったが、この種の入植の試みはしばしば困難に陥った。そのために、ニューサウスウェールズのリヴェリナ地区における果実栽培も含め、入植の手法としては採用されなくなった。
第2の実験は屯田Solider Settlementであり、復員軍人を土地に定住させるものであった。なかには集団入植に参加するものも存在したが、自己の農場を経営したもののほうがより成功した。この計画は2度の大戦後におこなわれたが、第1次世界大戦後におこなわれた計画がより大規模なものになった。第1次世界大戦後には、4,000以上の農場が屯田のために用意された。それに対し1945年以降では、その約半数が提供された。
オーストラリア人の生活がますます都市化されたため、1920年以降、稠密入植の理念が風化していった。
坂本優一郎00